大橋村は中津往還筋に位置することから、宿場の性格も有していた。ただ同村は、他藩大名の参勤交代荷物の運搬なども勤め、問屋が差配する「本宿(ほんじゅく)」とは異なり、小倉藩御用荷物を運送する「半宿(はんじゅく)」(間(あい)ノ宿)で、その差配は庄屋が勤め、一般の「人馬継」はしないのが決まりであった(「小倉藩政時状記」)。それでも旅商人や一般旅行者が立ち寄り、一宿することもあることから、文化一〇年(一八一三)八月、「大橋町与兵衛」が大橋村分・町分ともに「旅人示し方引請世話」役に任命された(「国作手永大庄屋日記」)。
同一〇年大橋町には、右世話役の与兵衛とは別に、「年寄」役が置かれ、潮屋平兵衛が就任していた。この年寄は、大橋町場からの米積出しや、他村への出店願いに署名しており、町場支配を職務にしていたものと思われる。