町庄屋

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 ところが文政元年(一八一八)には、「大橋町庄屋」の役職名が見られる。農業の片手間に「塩商」を営んでいた「大橋村喜久蔵」が出奔したことから、同村庄屋吉右衛門は喜久蔵の「帳外」を出願した。これに合わせて、同人が受けていた塩商の「御免札」を藩に返還するのであるが、こちらの方には庄屋とともに「大橋町庄屋藤左衛門」も署名している。そして文政七年閏八月一四日、藤左衛門が町庄屋を引退して、松屋(姓は古賀)伝蔵が後任にすわった。この伝蔵は天保一〇年(一八三九)三月まで町庄屋を勤め、永年勤続の功労として「銀二両」(二〇目)を拝領した。そして後役には亀屋重右衛門が就任した。
 しかし、大橋町の庄屋は二人の場合もあったようで、前年の天保九年末には、「古賀伝蔵」とともに「柏屋勘七」の名前も見える。町庄屋の異動を詳細に追跡するのは困難であるが、「国作手永大庄屋日記」から名前を拾ってみると、弘化二年(一八四五)六月に「町庄屋三郎右衛門」とある。この三郎右衛門は、嘉永三年(一八五〇)正月には「大橋町庄屋尾形三郎右衛門」とあり、この年以前に何かの功績によって、公式の場で苗字を名乗ることを許されたのであろう。また尾形三郎右衛門は大橋村の「方頭」(庄屋の補佐役で、この時期大橋村には他に三名いたようである)でもあったが、同年二月には退役している。しかし三月には、町庄屋役はそのままで、有久村の庄屋に就任した。
 このように、町庄屋は大橋村の中の町場にかぎって統括役を務めているが、村方の「方頭」よりも権限が与えられていたようである。ところが嘉永四年「改法」によって、町庄屋が廃止されることになった。そして町場における「宿用」などの公務は、大橋村庄屋が取り仕切ることになった。またこれまで町庄屋の下には、村庄屋の補佐役である方頭に類する者がいたようであるが、以後は庄屋が「召仕」い、実務はその者に担当させるという。これにより尾形三郎右衛門は、町庄屋の役儀を解かれたのである。