浦と水夫役目

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 大橋村と行事村に在郷町が形成され、店舗を構える商家が集住したのは、両村が小倉と中津両城下町の往来筋にあるという、陸上交通の便だけではない。元和八年(一六二二)の『小倉藩人畜改帳』によると、前掲表6に示したように、行事村には五人の水夫が居住する。また大橋村には水夫の記載はないが、「庄屋」のほかに「浦庄屋」が置かれていた。今のところ、大橋村の浦庄屋と行事村の水夫との関係は分からないが、両村ともに長峡川河口の両岸に位置しており、満潮時には海水が上がってくる場所柄であることから、水運の便に恵まれていたことは確かであろう。
 明和元年(一七六四)小倉藩士森次壮右衛門守之編纂の『郡方大綱秘記』(『郡方大意』と同本)によると、藩内で水夫役を勤める「浦」は二四カ所で、その内、水夫役を勤めるかわりに、年貢米を軽減(役米引)される村(浦)は次の一八村である。
 
企救郡赤坂村・門司村・柄杓田村・吉志村・恒見村・長浜村・平松村・大里村
京都郡苅田村・同浜町・行事村
仲津郡真菰村・今井村・大橋村
築城郡湊村・椎田村・松江村
上毛郡八屋村

 
 右のように、行事・大橋村のほかに、当市域では真菰村と今井村も「水夫役米引」の対象になっているが、真菰村は正保年間(一六四四~四八)までは今井村の内で、元禄一四年(一七〇一)までの間に独立したものである。元和八年の人畜改帳に見える「今居村」には、「川口庄屋」二名の存在が記録されているが、「水夫」の記載はない。大橋村に「浦庄屋」がいるのに、「水夫」が見えないのと同じである。両村ともに、水運管理の役目を帯びていたことが予想される。しかし、年代の特定はできないが、「大橋村安太郎」が方頭・庄屋の連署を得て、長峡川対岸行事村の飴屋に、「村方水夫銀入用」の名目で、「札壱貫目」借用の手形を発給した事例があり(玉江文書二二〇の六)、大橋村に浦としての機能があったことが窺える。