仲津郡の内で当市域には、右の「水夫役米引」浦以外に、沓尾浦と蓑島浦がある。元和八年の人畜改帳には、両所ともに「浦」と明記されており、沓尾浦に浦庄屋と「加子」六人が登録されている。蓑島浦では「庄屋・肝煎」と「御加子」三〇人が登録される。「水夫」・「加子」は、いずれも「かこ」と読み、一般には漁師を含めた船乗りのことであるが、人畜改帳における「水夫」・「加子」と「御加子」の記載様式の違いが、何を意味するものかは不明である。また、沓尾浦には石高の記載はない(元禄一四年豊前図では二二石余)が、蓑島浦の場合は、わずかではあるが二三石二斗五升九合(元禄一四年豊前図では一七石余)の石高があり、田畑の耕作も行われていたものと思われる。ちなみに、万延元年の「仲津郡竈数人数書上帳」を見ると、「沓尾村」は百姓・漁人七三軒、「蓑島村」は同二六八軒で、大橋村は「漁人」は無く、百姓三六二軒とある。同年「京都郡竈数人数書上帳」には、行事村にも「漁人」は無く、百姓二九六軒が登録されている。なお、隣町苅田町域の苅田村は百姓・漁人一六六軒、浜町は同五二軒である。
「浦」には、沓尾浦や蓑島浦のように、行政的に全く独立した浦と、行事・大橋のように村の一部が「浦」としての役割を果たしているものとがある。特に行事・大橋の場合は、長峡川を利用した水運を生業とする浦であり、その水運が町場の形成に大きな要因になったものであろう。なお、「郡方大綱秘記」がいうところの小倉藩二四浦については確定できないし、史料によって浦名が異なるものもある。ちなみに、「丑十一月」(文政一二年か)の「御家法記録」(豊津町歴史民俗資料館所蔵)と題する史料では、次の二四浦をあげている。
平松・長浜・大里・赤坂・門司・田ノ浦・柄杓田・今津・吉志・苅田・馬場・行事・大橋・今井・真菰・元永・沓尾・蓑島・椎田・湊・松江・八屋・沓川・小祝