海運業の発達

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 では、いつ頃から長峡川船運と蓑島の海運業が発達したのであろうか。残念ながら今のところ、確証を得る史料は見当たらない。また元禄一四年の「豊前図」では、「蓑島村」は「船不繋」の記載がある。この記述の意味も含めて、次のように推測しておく。
 元和八年(一六二二)「小倉藩人畜改帳」には、「御加子」三〇人が登録されているので、少なくとも江戸時代初頭には、船を使って生計を立てている住人はいる。そして「御」の字があることから、藩の御用も務めていたことが推測される。しかし元禄年間の蓑島は、「船不繋」の状態であったことから、同島の船は、この時代までは荷物輸送を専業にする廻船ではなく、日常は漁撈に使用する漁船で、停泊には浅瀬や砂浜に引き上げる程度の小型船であった。小島を中心に、廻船が停泊する湊が整備され、荷物輸送が活発化するのは、大橋・行事の町場形成、同地商人の活躍と関連するのではないだろうか。すなわち、大橋・行事に集荷された諸産物は、川船で長峡川を積み下し、蓑島で廻船に積み替えて、上方に輸送されるのである。天明六年(一七八六)の船改めにおいて、行事浦喜兵衛(飴屋)所有の一二端帆荷船(乗員五人)が、葛二五〇俵と「種子」(菜種か)二〇〇俵を、蓑島浦から大坂まで輸送する旨の証文を、行事浦庄屋半兵衛が浦奉行に提出した(玉江文書八一)。
 蓑島・沓尾の船は、産物を輸送するかたわら、伊勢参宮など上方への旅行者にも利用されている。築城郡安武手永の住民たちも利用しており、船名を見ると、明和元年(一七六四)に「蓑島甚兵衛舟」、安永年間には同船のほかに「沓尾浦善右衛門船」、天明年間には「蓑島永久丸孫右衛門船」・「蓑島平兵衛船」などがあり、この以後も「蓑島便船」が活用されている(「安武手永大庄屋日記」)。
 
写真12 元禄14年豊前国図の京都・仲津郡部分
写真12 元禄14年豊前国図の京都・仲津郡部分
(豊津高等学校錦陵同窓会所蔵)