石坂を通っての川舟輸送は、早くは細川氏の時代に行われていた。しかし、雨が降り、川の水量が十分でないと通船は困難だったようである。ちなみに寛永七年(一六三〇)八月二四日、奉行衆が郡奉行に宛てた書状の中に、次のような記事がある。
川の普請が終了し、「御舟」も石坂までは到着したが、今は殊の外「水ひつまり申ニ付、雨ふり不申候ハヽ、荷をつミ候てハ通り申間敷候」という。一雨降った後に舟を通すことにして、「石切」一〇人を一両日ほど現地に留め置くことにした(「御郡へ之控」、永青文庫所蔵)。
これによれば、今川の上流でもどうにか川舟の運行は行われていたが、特に石坂辺では、降雨などで水量が増したときでないと、荷物を積んでの通行は困難であったようである。文政五年(一八二二)に、「谷川の大石ヲ除キ、今井川の様ニ船ヲ通し候工面」のために、石坂の普請が行われたが、大変な工事で「諸人眉をしわめさるものなし」という有様だったという(『中村平左衛門日記』)。残念ながら、普請の成果のほどは分からない。