しかし元禄三年より以前、寛永一一年(一六三四)に、大坂へ回漕する蔵米のすべてを宇和島屋甚左衛門に届け、その内三分の一は塩屋六左衛門に渡すことを約した、藩主小笠原忠政(忠真)(ただまさ(ただざね))署名の「覚」(鹿島文書)がある。同米の販売勘定については、林与左衛門・早川八左衛門・塚本十兵衛の三名のもとで処理する。この三名が、いかなる役職にあったのか判然とせず、右「覚」をもって大坂蔵屋敷開設の証拠とはできないが、蔵米の大坂回漕・販売は、より早い時期から行われていたことは確かであろう。ちなみに、延享四年(一七四七)以降の小倉藩蔵屋敷は、少し位置を換えるものの、大坂中ノ島に置かれている(表11参照)。
表11 小倉藩の蔵屋敷 | |||
年号 | 蔵屋敷位置 | 名代 | 蔵元 |
延享4(1747) | 中ノ島 塩屋六右衛門町 | 助松屋忠兵衛 | 平野屋三郎兵衛 |
宝暦6(1756) | 中ノ島常安町 | ||
安永6(1777) | 助松屋新次郎 | 平野屋弥太郎 | |
天明3(1783) | 中ノ島 塩屋六右衛門町 | 同前 | 池田屋九右衛門 |
文化11(1814) | 港橋北詰(中ノ島) | 鴻池屋三郎兵衛 | 助松屋忠兵衛 |
天保6(1835) | 同前 | 鴻池屋八左衛門 | 同前 |
維新前 | 同前 | ||
出典:『日本経済史辞典』上巻 |