小倉藩の蔵米販売

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 『郡方大綱秘記』は、小倉藩蔵米の大坂回漕は元禄三年(一六九〇)に始まり、当初の米高は二万五〇〇〇石であったが、明和元年(一七六四)頃には五万石余にも上ったという。ちなみに小倉藩の年貢収納米高は、「豊前旧租要略」によると、天和三年(一六八三)から宝暦四年(一七五四)まで七二年間の平均で約一〇万六〇〇〇石であるから、大坂への回漕米高は収納米の半分程に上ったということになる。その回漕費用は、小倉藩内の船であれば「四歩三朱七厘」(積載米高の四・三七%)、借船の場合は「五歩六朱」(同五・六%)である。さらに蔵屋敷への積込み賃として、一石につき一合二勺が必要という。
 しかし元禄三年より以前、寛永一一年(一六三四)に、大坂へ回漕する蔵米のすべてを宇和島屋甚左衛門に届け、その内三分の一は塩屋六左衛門に渡すことを約した、藩主小笠原忠政(忠真)(ただまさ(ただざね))署名の「覚」(鹿島文書)がある。同米の販売勘定については、林与左衛門・早川八左衛門・塚本十兵衛の三名のもとで処理する。この三名が、いかなる役職にあったのか判然とせず、右「覚」をもって大坂蔵屋敷開設の証拠とはできないが、蔵米の大坂回漕・販売は、より早い時期から行われていたことは確かであろう。ちなみに、延享四年(一七四七)以降の小倉藩蔵屋敷は、少し位置を換えるものの、大坂中ノ島に置かれている(表11参照)。
表11 小倉藩の蔵屋敷
年号蔵屋敷位置名代蔵元
延享4(1747)中ノ島 塩屋六右衛門町助松屋忠兵衛平野屋三郎兵衛
宝暦6(1756)中ノ島常安町  
安永6(1777) 助松屋新次郎平野屋弥太郎
天明3(1783)中ノ島 塩屋六右衛門町同前池田屋九右衛門
文化11(1814)港橋北詰(中ノ島)鴻池屋三郎兵衛助松屋忠兵衛
天保6(1835)同前鴻池屋八左衛門同前
維新前同前  
出典:『日本経済史辞典』上巻