米の集荷と輸送

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 企救郡各村の年貢米は、直接小倉城下の表蔵に輸送されるが、ほかの五郡の場合は、各郡内に設置されている郷蔵に一旦収納する。京都郡は行事、仲津郡は大橋と沓尾に蔵が設置されていた(『豊前旧租要略』)。安政元年(一八五四)の仲津郡年貢で大橋蔵に収納されたのは、米一万一九六石五斗三升三合、生餅四六四石、大豆六一石六斗六升、小豆八斗である(「国作手永大庄屋日記」)。
 郷蔵から表蔵には海路で輸送するために、行事と大橋ともに郷蔵は船積みに便利な長峡川岸に建てられている。郷蔵に収納された年貢米は、時には城下町の表蔵に回送されず、直接大坂に輸送された例もある。天保元年(一八三〇)行事蔵から一七八五俵が、行事浦管轄の相生丸徳蔵船で積登され、嘉永五年(一八五二)には、大橋村郷蔵の米四五〇〇石の内三二八〇石が、大坂に回漕された。ちなみに文政二年(一八一九)、大橋蔵の吟味役に浜島彦右衛門、「引受」に内山権六・豊島槌五郎、沓尾蔵の吟味役に松村増左衛門、「引受」に緒方全助・中村吉兵衛の名前が知られる(「国作手永大庄屋日記」)。
写真13 大坂問屋水上商いの図
写真13 大坂問屋水上商いの図
(広益国産考 北九州市立自然史・歴史博物館所蔵)

 年貢以外の穀物の輸送については文化一三年(一八一六)、次のような規定が出されている。米、大・小麦、蕎麦、粟、稗いずれにても、郡内限りの輸送については、一斗までの数量であれば、「道手形(みちてがた)」(輸送許可証)は不要。一斗一升から八斗までは庄屋の「道手形」が必要。一石以上になれば大庄屋の「道手形」が必要である。ついで、他郡への輸送については、八斗までは大庄屋、八斗以上の場合は筋奉行の「道手形」を必要とした。他領への輸出には、少量であっても郡代の許可を受けねばならない(「国作手永大庄屋日記」)。
 しかし、米穀の輸送規定については、この後改定されたものと思われ、天保九年(一八三八)行事村飴屋の酒造用米八斗の郡内輸送に際しては、代官が「道手形」を出している(玉江文書一〇〇の一)。
 すなわち、黒米(玄米)を京都郡谷村の水車場で白米にしたのち、同郡行事村の飴屋(当主が玉江彦右衛門)が抱える酒造場に輸送することを、同郡の代官高竹林兵衛が許可したものである。
写真14 白米道手形
写真14 白米道手形
(玉江文書 北九州市立自然史・歴史博物館所蔵)

   覚
  一白米八斗  馬壱疋
  右は玉江彦右衛門方酒造
  米、谷村水車場所より行事
  村まで取越し候、道筋手形
  此の如く候、以上
    戌年 高竹林兵衛(印)
      道筋
       改所