以上は陸路輸送であるが、年貢米と同様、大橋・行事に集荷された余米も、長峡川水運を活用して、遠隔地には海路輸送される。大橋町の潮屋為三郎は下関油問屋に向けて、油購入代金支払いのために米を輸送するにあたり、「御川口積出」を申請している。その米穀量は、文化一一・一二年に各一〇〇石。文政元年に一五〇石。同三年から五年の間は毎年一六〇石、同六・七年は各一〇〇石を数えた。また大橋の商人柏木勘七は弘化二年(一八四五)、「商売方」の名目で六〇〇石もの米を下関に積出している。米積出しに際しては、輸送税としての運上銀が掛けられるが、嘉永六年(一八五三)では一石につき銀三分の割合であった(「国作手永大庄屋日記」)。
輸送は、長峡川を川舟で蓑島まで運び、蓑島からは廻船に積み替えて海路輸送になる。なお、蓑島までの輸送に関しては、大橋村と沓尾村の庄屋が輸送米の石数を確認して、筋奉行に届け出る。筋奉行はこれを郡代に報告すると、郡代の役所(内役所)から蓑島にその旨が通知される仕組みであった。
小笠原忠嘉の家督相続の祝儀のために、安政四年(一八五七)正月に行事村からは、米一〇〇俵を「差上米」として小倉城下に輸送したが、この時は陸路輸送であった。村方では、「牛馬も少く、陸出し大造」になることを嫌って、「船廻し」を希望したのであるが、筋奉行は、なるべく「賑々敷持出し申度」として、陸路輸送を指示したという例もある。しかし右事例においても、通常は船輸送であったことが窺える。