綿と綿実座

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 江戸時代、綿の代表的産地は近畿地方であるが、小倉藩領内においても、「綿ハ産出僅少」(『豊前旧租要略』)とはいえ、小物成の中に「真綿代」が含まれているように、多少の栽培は行われていたようである。企救郡富野村(北九州市小倉北区)に綿畑があり、ここで収穫された綿は、小倉藩特産品である木綿織物「小倉織(こくらおり)」の原料糸になっていた(「龍吟成夢」)。
 綿は五月に種を蒔き、八月から九月の開花あとに結実する。一〇月になると実がはじけて綿毛(綿花)ができ、これを刈り取ると種が残る。江戸時代には、この種を「綿実」と称して、高級食用油の原料として珍重した。当行橋市域に関するところでは、元文二年(一七三七)九月に、行事村の商人草野屋与右衛門が同村の飴屋彦右衛門に、まずは一年間の約束で、京都郡の綿実集荷・販売を取り仕切る「綿実座(わたのみざ)」の権利を預けた。この権利預かりは「実座下請」の名目で、飴屋は銀四三匁を草野屋に渡し、藩への運上銀も負担した。翌年九月には銀二七〇目で、永代に売り渡されている(写真15)。京都郡綿実座に関しては、飴屋は以後少なくとも嘉永四年(一八五一)まで、引き続いて権利を所持している。
写真15 綿実座売渡し証文
写真15 綿実座売渡し証文
(玉江文書 北九州市立自然史・歴史博物館所蔵)

 仲津郡の綿実座としては、寛政一一年(一七九九)に大橋町の苅田屋清助、文政一〇年(一八二七)には「大橋町吉右衛門」の名前が知られる。この吉右衛門が綿実座を引き受けたのは、寛政年間(一七八九~一八〇一)以前からのことという(「国作手永大庄屋日記」)。しかし、苅田屋清助の方は天保五年(一八三四)六月に、金三〇両借用の抵当として、仲津郡綿実座の権利を飴屋に預けていたが、同一一年四月には、銭四二四貫文で飴屋に売り渡した(玉江文書一〇五)。ちなみに、同年の大坂貨幣相場を参考にすると、銭四二四貫文は金六二両余に当たる。また飴屋は、いつの頃からかは明確ではないが、田川郡綿実座の権利も譲り受けている。安政二年(一八五五)が同座権利の年限であったが、引き続いて権利申請を行ったようである(「国作手永大庄屋日記」)。
 小倉藩領内における、綿の生産量を知る史料は見当たらないが、天保一〇年(一八三九)の「国作手永大庄屋日記」には、次のような記載がある。
 
綿実登せ方の義ハ、当領ニは稀ニ綿作仕り候者も御座候へども、元来地味ニ合申さざる義ニ付、多分作り立来り申さざるニ付、登せ方仕り候程は綿実御座無く候

 
 すなわち、もともと小倉藩領の地質は、綿の栽培に向いていないために、まれには綿を作っている者もいるが、多量には栽培されていない。そのため綿実の収穫量は、上方に輸送するほどのものではない、というのである。しかし、これより以前の日記には、綿実の上方輸送に関する記事があるので、以下に整理しておく。