表12 仲津郡綿実運上 | |||
和暦 | 西暦 | 運上銀高 | 包判賃 |
天保14年 | 1843 | 43匁 | 銭40文 |
弘化元年 | 1844 | 43匁 | 銭40文 |
2年 | 1845 | 43匁 | 札4分 |
3年 | 1846 | 銭4貫598文 | |
4年 | 1847 | 43匁 | 札4分 |
嘉永元年 | 1848 | 43匁 | 札4分 |
2年 | 1849 | 銭4貫598文 | |
3年 | 1850 | 45匁9分 | |
出典:「覚」(玉江文書105) |
表12で分かるように、仲津郡の綿実座引き受けの権利に伴う運上銀高は四三匁であるが、嘉永三年を除いて、別に「包判賃」として銭四〇文か「札」四分を添えている。そして銭納には「銭四貫五九八文」とあるのみで、「包判賃」の記載はない。そこで、銀納と銭納との違いを、次のように解釈しておきたい。
江戸時代の銀貨である丁銀・豆板銀はともに、重さを量って金額を決定するもので、正確を期すには両替商人の保証が必要である。一度額面を決定し、これを紙で包んで両替商人の判子を押せば、破らない限りその額面で通用する。その保障費が銭四〇文ということである。銭で納める場合にも、銀四三匁に換銀するための手数料は必要となり、その分も含めておかねばならない。すなわち、銭四貫五九八文から「包判賃」四〇文を差し引いた四貫五五八文が、銀四三匁に相当する運上分である。銀一匁は銭一〇六文の交換相場となる。「札」は藩が発行する銀貨代用の「銀札」のことで、こちらの相場は札一匁が銭一〇〇文で、現銀貨より幾分下値になる。
嘉永三年(一八五〇)分の運上高は、原史料に「銀四五匁九分」とあるが、正確には、これは銀札高のことと思われる。年代は確定できないが、安政三辰年(一八五六)のものと推定される運上高について、次のような記述がある(玉江文書八一三の四九)。
一銀四拾三匁 御運上
札ニて四拾五匁五分八厘
外ニ四分
〆四拾五匁九分八厘
札ニて四拾五匁五分八厘
外ニ四分
〆四拾五匁九分八厘
これは先の現銀・銀札・銭の交換相場を適用すれば、表2の運上銀高と包判賃に合致する。嘉永三年の運上高とは八厘の差はあるが、同年運上高「四五匁九分」は、包判賃を含めた銀札による上納高と見てよいだろう。すなわち、仲津郡の綿実座運上高は、銀四三匁で固定されていたことになる。
なお嘉永六年(一八五三)五月に、上毛郡八屋浦の仲右衛門という人物が、「綿実買集方商売」を始めたいとして、「綿実買入御免札」の発給を同郡筋奉行に申請している(「友枝手永大庄屋日記」)。このように、大坂回送量は乏しかったとしても、領内において商業取引が可能な程度には、綿実の収穫はあったということである。