綿実の上方輸送

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 寛政一一年(一七九九)四月一七日、苅田屋清助は「行事喜兵衛船」を使って、綿実一〇〇俵(一石五斗入り、一五〇石)を兵庫の淡路屋庄三郎方に送った。ついで同年七月五日に六〇俵、一〇月八日に四〇俵、一二月四日に九〇俵を、同様にして淡路屋に輸送している。なお、「行事喜兵衛船」とは、飴屋所有船のことと思われる。また、先に見たように、苅田屋清助は天保五年(一八三四)以後、綿実座の権利を飴屋に譲っている。飴屋の方は、居住地京都郡のほかに、仲津・田川郡の綿実座まで引き受けているが、運上銀はそれぞれの郡に納めているようである。仲津郡綿実に関する運上銀は、大橋町庄屋尾形三郎右衛門に納めており、その金額は表12の通りである。
表12 仲津郡綿実運上
和暦西暦運上銀高包判賃
天保14年184343匁銭40文
弘化元年184443匁銭40文
  2年184543匁札4分
  3年1846銭4貫598文 
  4年184743匁札4分
嘉永元年184843匁札4分
  2年1849銭4貫598文 
  3年185045匁9分 
出典:「覚」(玉江文書105)

 表12で分かるように、仲津郡の綿実座引き受けの権利に伴う運上銀高は四三匁であるが、嘉永三年を除いて、別に「包判賃」として銭四〇文か「札」四分を添えている。そして銭納には「銭四貫五九八文」とあるのみで、「包判賃」の記載はない。そこで、銀納と銭納との違いを、次のように解釈しておきたい。
 江戸時代の銀貨である丁銀・豆板銀はともに、重さを量って金額を決定するもので、正確を期すには両替商人の保証が必要である。一度額面を決定し、これを紙で包んで両替商人の判子を押せば、破らない限りその額面で通用する。その保障費が銭四〇文ということである。銭で納める場合にも、銀四三匁に換銀するための手数料は必要となり、その分も含めておかねばならない。すなわち、銭四貫五九八文から「包判賃」四〇文を差し引いた四貫五五八文が、銀四三匁に相当する運上分である。銀一匁は銭一〇六文の交換相場となる。「札」は藩が発行する銀貨代用の「銀札」のことで、こちらの相場は札一匁が銭一〇〇文で、現銀貨より幾分下値になる。
 嘉永三年(一八五〇)分の運上高は、原史料に「銀四五匁九分」とあるが、正確には、これは銀札高のことと思われる。年代は確定できないが、安政三辰年(一八五六)のものと推定される運上高について、次のような記述がある(玉江文書八一三の四九)。
 
  一銀四拾三匁   御運上
     札ニて四拾五匁五分八厘
    外ニ四分
  〆四拾五匁九分八厘

 
 これは先の現銀・銀札・銭の交換相場を適用すれば、表2の運上銀高と包判賃に合致する。嘉永三年の運上高とは八厘の差はあるが、同年運上高「四五匁九分」は、包判賃を含めた銀札による上納高と見てよいだろう。すなわち、仲津郡の綿実座運上高は、銀四三匁で固定されていたことになる。
 なお嘉永六年(一八五三)五月に、上毛郡八屋浦の仲右衛門という人物が、「綿実買集方商売」を始めたいとして、「綿実買入御免札」の発給を同郡筋奉行に申請している(「友枝手永大庄屋日記」)。このように、大坂回送量は乏しかったとしても、領内において商業取引が可能な程度には、綿実の収穫はあったということである。