幕府の政策

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 蔵米の販売や綿実の回送で見たように、小倉藩内産物の販売市場として、早くから大坂を中心とする上方との関係が窺える。徳川政権の幕府が置かれ、政治・経済の中心都市として飛躍的成長をとげる江戸にあっては、生活用照明のための灯油の需要も膨大なものとなった。灯油の多くは、大坂から供給されており、大坂での製油増が期待された。そのためには、各地からの灯油の集荷にもまして、原料となる綿実・菜種子の増収が不可欠であった。
 幕府は宝暦九年(一七五九)に、諸国生産の綿実・菜種子を、大坂に設置した両種物問屋に回送することを命じ、他所での「道買(みちがい)」を禁止した(『御触書宝暦集成』)。上方の絞油屋は、右問屋から原料を購入する仕組である。
 ついで明和七年(一七七〇)には、それまで絞油屋が原料となる綿実・菜種子を、大坂両種物問屋から購入していたのを、摂津国兎原郡の水車新田絞油屋は綿実に限って、九州筋その外いずれの国からも買うことが許可された。また大坂両種絞油屋は、菜種子についても、大坂回着のものは問屋以外から購入することが許された。しかし、絞油は大坂で油屋に持ち込まねばならない。大坂から江戸への油の回送量増加を期待したもので、「明和の仕法」といわれる政策である(『御触書天明集成』)。なお寛政三年(一七九一)には、兵庫にも両種物問屋を設置し、安芸・周防・長門・出雲・因幡・伯耆・石見・美作・隠岐・阿波・大隈・壱岐・対馬一三カ国の菜種子の集荷を引き受けさせた(『御触書天保集成』)。