菜種子

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 綿実とならんで「両種物」といわれるように、菜種子は貴重な油の原料であった。そして当地方では、『豊前旧租要略』に「菜種は漸年培養スルモノ増加」と記しているように、菜種子の栽培は綿実よりも盛んであった。しかし天保一〇年(一八三九)の頃、「近年違作勝ニ御座候て、食料ニ差支え候ニ付、麦作をも心掛け候義ニ付、菜種余分ニ積登セ候程ニは相運び申さず候」(「国作手永大庄屋日記」)というように、菜種子の栽培時期は麦作時期と重なっており、凶作などの事情によっては、食料確保優先のために、菜種子の栽培が抑えられることもあった。『豊前旧租要略』も、「裸麦ハ収穫少カラサルモ、十中九以上ハ農家ノ食用」と記している。すなわち、菜種子は換銀のための商品作物、麦は食用であり、農民は自らの食料事情を勘案しながら、菜種子の生産率を増減しているのである。
 小倉藩領における菜種子の栽培状況や、生産量を知ることはできないが、「国作手永大庄屋日記」から集荷・販売の実例を見ることで、あわせて当地方の生産状況も窺ってみることにしたい。