菜種子の生産

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 幕府の指示を受けてのことと思われるが、領内菜種子の生産と流通形態を把握するには、問屋がなくてはできないとの認識から、寛政一一年(一七九九)に、まず菜種子問屋の所在調査が命じられた。前年の仲津郡生産の菜種子は、行事村の飴屋や隣国城下町中津の上田屋藤蔵などに売られていたようで、徳政村は中津城下町の三木屋佐助、田中村は築城郡の「常五郎」の名前を挙げている。藩の方は、「両種物実座一手永ニ一軒宛相立」ことを要求し、既存の「実座」はそのまま「両種物座(りょうたねものざ)」とすることにした。これを受けて仲津郡では、これまでの綿実座苅田屋清助と菜種子座の松屋善次郎を「大橋両種子座」とし、「菜種子座手先」として国作手永を大橋町松屋米蔵、元永手永を大橋町松屋松次郎、長井手永を続命院村の和助、節丸手永を横瀬村の伴蔵、平島手永を今井村の久兵衛が担当することになった。ちなみに、小倉城下における「両種子物問屋」としては、山本屋清助・対馬屋権太郎・住吉屋音右衛門・伊崎屋善次郎・筑後屋太郎兵衛・博多屋久七の名前があがっている。
 この寛政一一年八月時点での、「大橋両種子座」松屋善次郎の菜種子買い込み高は九九石五升九合で、詳細は表13の通りである。先に記したように、食料不足の時には麦作が主となって、菜種子の生産が抑えられることによるものか、天保二年(一八三一)の仲津郡での生産目標高は二〇石で、手永ごとでは、節丸手永一四石・平島手永八斗・長井手永二石七斗・国作手永二石・元永手永五斗である(「国作手永大庄屋日記」)。すなわち天保二年の仲津郡生産目標高は、寛政一一年松屋善次郎の買い集め高の五分の一にすぎない。生産量としては、仲津郡内では節丸手永が圧倒的であるが、手絞り以外の菜種子は「大橋両種子座」に集荷されることになる。ちなみに、天保三年閏一一月「大橋村種座吉右衛門」の場合は、集荷菜種子の内五升を翌年の「蒔種」として囲い込み、二石を「手絞」に回している。
表13 松屋善次郎の菜種子集荷
手永名買集高
平島10.0500
元永7.8715
国作8.8555
節丸67.2330
合計99.0590
単位:石

 領内菜種子の集荷を確実にするために、引き続いて郡内に菜種子買い集めの担当者を設置しており、嘉永六年(一八五三)仲津郡の「菜種買集座方」として、国作手永は大橋村繁兵衛、元永手永は沓尾村太兵衛、長井手永は続命院村三右衛門、節丸手永は木井馬場村官兵衛、平島手永は今井村清市の名前が確認できる(「国作手永大庄屋日記」)。
 安政元年(一八五四)国作手永の菜種子生産高は一石一升五合であるが、村毎の菜種子蒔き付け面積・生産高・売却先など詳細は表14の通りである。上坂村の売却高三斗五升三合の内、続命院村三右衛門へ二斗四合、大橋村繁衛へは一斗四升九合が渡されている。また錦原の菜種子は続命院村三右衛門に売り渡されており、必ずしも売却座方は、嘉永六年時の座方に固定されているわけでもなさそうである。こうして集荷した菜種子は、上方市場に回送しなければならず、同四年仲津郡からは一二石五升が、大坂北浜二丁目の太鼓屋治兵衛に送られている。積船は蓑島浦の繁蔵船である。
表14 安政元年の国作手永菜種子生産高菜種子単位:石
村名蒔畝数生産高蒔種囲高売却高売渡座方
上坂1反1畝  0.3780.0250.353続命院村三右衛門・大橋村繁兵衛
大橋6畝  0.3060.0060.300大橋村繁兵衛
有久4畝21歩0.0870.0070.080大橋村繁兵衛
国分8畝  0.1960.0110.185大橋村繁兵衛
錦原2畝10歩0.0480.0080.040続命院村三右衛門
合計 3反2畝1歩1.0150.0570.958続命院村三右衛門・大橋村繁兵衛
出典:「国作手永大庄屋日記」