この寛政一一年八月時点での、「大橋両種子座」松屋善次郎の菜種子買い込み高は九九石五升九合で、詳細は表13の通りである。先に記したように、食料不足の時には麦作が主となって、菜種子の生産が抑えられることによるものか、天保二年(一八三一)の仲津郡での生産目標高は二〇石で、手永ごとでは、節丸手永一四石・平島手永八斗・長井手永二石七斗・国作手永二石・元永手永五斗である(「国作手永大庄屋日記」)。すなわち天保二年の仲津郡生産目標高は、寛政一一年松屋善次郎の買い集め高の五分の一にすぎない。生産量としては、仲津郡内では節丸手永が圧倒的であるが、手絞り以外の菜種子は「大橋両種子座」に集荷されることになる。ちなみに、天保三年閏一一月「大橋村種座吉右衛門」の場合は、集荷菜種子の内五升を翌年の「蒔種」として囲い込み、二石を「手絞」に回している。
表13 松屋善次郎の菜種子集荷 | |
手永名 | 買集高 |
平島 | 10.0500 |
元永 | 7.8715 |
国作 | 8.8555 |
節丸 | 67.2330 |
合計 | 99.0590 |
単位:石 |
領内菜種子の集荷を確実にするために、引き続いて郡内に菜種子買い集めの担当者を設置しており、嘉永六年(一八五三)仲津郡の「菜種買集座方」として、国作手永は大橋村繁兵衛、元永手永は沓尾村太兵衛、長井手永は続命院村三右衛門、節丸手永は木井馬場村官兵衛、平島手永は今井村清市の名前が確認できる(「国作手永大庄屋日記」)。
安政元年(一八五四)国作手永の菜種子生産高は一石一升五合であるが、村毎の菜種子蒔き付け面積・生産高・売却先など詳細は表14の通りである。上坂村の売却高三斗五升三合の内、続命院村三右衛門へ二斗四合、大橋村繁衛へは一斗四升九合が渡されている。また錦原の菜種子は続命院村三右衛門に売り渡されており、必ずしも売却座方は、嘉永六年時の座方に固定されているわけでもなさそうである。こうして集荷した菜種子は、上方市場に回送しなければならず、同四年仲津郡からは一二石五升が、大坂北浜二丁目の太鼓屋治兵衛に送られている。積船は蓑島浦の繁蔵船である。
表14 安政元年の国作手永菜種子生産高 | 菜種子単位:石 | |||||
村名 | 蒔畝数 | 生産高 | 蒔種囲高 | 売却高 | 売渡座方 | |
上坂 | 田 | 1反1畝 | 0.378 | 0.025 | 0.353 | 続命院村三右衛門・大橋村繁兵衛 |
大橋 | 田 | 6畝 | 0.306 | 0.006 | 0.300 | 大橋村繁兵衛 |
有久 | 田 | 4畝21歩 | 0.087 | 0.007 | 0.080 | 大橋村繁兵衛 |
国分 | 田 | 8畝 | 0.196 | 0.011 | 0.185 | 大橋村繁兵衛 |
錦原 | 畠 | 2畝10歩 | 0.048 | 0.008 | 0.040 | 続命院村三右衛門 |
合計 | 3反2畝1歩 | 1.015 | 0.057 | 0.958 | 続命院村三右衛門・大橋村繁兵衛 | |
出典:「国作手永大庄屋日記」 |