菜種子の大坂回送については天明六年(一七八六)に、「行事浦喜兵衛荷物」として「種子弐百俵」が蓑島浦から積み出された実績がある。この「行事浦喜兵衛」は飴屋五代当主(法名宗達)のことで、自前の一二端帆船を利用して、葛二五〇俵とともに輸送したものである。飴屋は綿実座と菜種子座をかねており、文化四年(一八〇七)「赤土屋吉左衛門」に銀五〇〇目を「菜種代銀引当」の名目で貸与するなど、生産者農民から直接購入するほかに、商人に資金提供して集荷する方法も見える。年代は定かでないが、飴屋(玉江家)の文書群の中に、大坂江戸堀一丁目の帯屋与兵衛から田川郡下津野村治郎兵衛に宛てた、「菜種拾壱石五斗壱升弐合」の受取証(玉江文書八一三の四一)が含まれているのは、飴屋が大坂回送を引き受けたことによるものであろう。
量は多くないが、当地方からも、絞り油原料の菜種子が大橋や行事の両種物座商家に集められ、さらに上方に輸送されていた実態を知ることができた。