江戸時代には、物の価値を判断する基準として米石高が使用された。大名や家臣の家格も「何石」と表現されたし、作物を生産しない屋敷地の価値も、田畑耕作地と同様に石高で表現された。すなわち、全国的に同一基準で価値を表現する手段としては、大方の地方で共通に、しかも常時安定して手に入れることができる米穀が、もっともふさわしかったということであろう。江戸時代が「石高制社会」と評される所以である。江戸時代以前には、今日的貨幣の普及が不完全で、量的にも不足し、また全国的に統一基準で通用させるだけの権力を行使できる政権が存在しなかったということにもなる。
徳川家康は、慶長八年(一六〇三)二月一二日に征夷大将軍に就任して、正式に江戸幕府を開く以前の、同六年五月に大判・小判・一分金および丁銀・豆板銀を全国通用貨幣に制定するなど、貨幣の全国統一に着手した。