幕府の意図とは裏腹に、江戸時代の初期には各地で鉱山の開発とともに、加賀小判・甲州金などと呼ばれる大名領国貨幣が鋳造されている。当地方の細川小倉藩領内においても、元和七年(一六二一)頃、企救郡呼野・田川郡採銅所辺りで鉱山の採掘が行われており、一〇目以上の銀には平田彦九郎の印、それ以下の銀には「木瓜(きゅうり)」と「菊」の印を打ち、極印の無い銀貨の使用を禁止している(「日帳」永青文庫蔵」。砂金は袋に入れて「右田」氏が判を付し、江戸において小判などに両替された(「金銀請払之御印帳」同)。
さらに寛永元年(一六二四)には、田川郡香春町に鋳造所が建設されて、領内通用のための「銭」が鋳造された。同年一一月には、新銭一五〇貫文が小倉城下に送られている。藩は新銭の通用を促進するために、城下町商人の銀屋彦丞などを「銭屋」に指定し、新銭一貫文を銀五匁とする交換相場を明示した。しかし、慶長一四年(一六〇九)に幕府が規定した両替公定相場では、銭一貫文は銀一二匁五分になることを考慮すると、当領内鋳造の新銭は、価値評価が低かったことが窺える。それは銭の質の問題であり、藩も寛永五年には新銭の通用をあきらめ、「かうち(交趾)」などの対外交易用に当てることとなった(「御奉行奉書抄出」、同)。