前記したように、通用貨幣の統一は、全国統一政権としての徳川幕府の悲願とも言える。特に、一般庶民が日常生活で使用する銭の統一は、まさにその象徴である。
幕府は慶長一一年(一六〇六)に「慶長通宝(つうほう)」、元和三年(一六一七)に「元和通宝」という一文銭を発行する一方で、中世以来の渡来銭で一部国内でも鋳造していた「永楽(えいらく)通宝」の使用を制限した。そして寛永一三年(一六三六)には、以後江戸時代を通して鋳造・使用される小額貨幣「寛永通宝」を発行する。この銭は小額であり、しかし使用率は高いことから、北は水戸、南は豊後国竹田まで、全国各地一〇カ所余に鋳造所(銭座)が設置され、寛永期の鋳銭高は四年間で二七五万貫文に上った。ついで寛文年間に新設された江戸亀戸村の銭座では、天和三年(一六八三)までの一六年間で一九七万貫文の「寛永通宝」(裏面に文の刻字)を鋳造し、ここにいたって幕府鋳造銭の全国統一が達成された(日本銀行調査局編『図録日本の貨幣』2)。