幕府による通貨の統一と鋳造権掌握の一方で、諸藩では領内通貨の補填による貨幣経済の安定・発展や、藩赤字財政の建直しなど、種々の必要性から、幕府鋳造貨幣の代用として「藩札」を発行した。
小倉藩では延宝六年(一六七八)二月に藩札の発行を幕府に申請し、三月一六日に許可を得た。一般には「延宝札」といわれているもので、額面は銀一〇目・五匁・一匁・七分・四分・三分・二分の七種類である。札にはそれぞれ高額面から、高砂の翁媼、鶴亀、帆かけ船、布袋、猩々、大黒、蛭子の図柄が刷り込まれ、同年六月二三日から使用が開始された。これによって、小倉藩内では、銀二匁以上の幕府鋳造貨の使用は禁止となった。
現銀と札とを交換するために「札所」が設置されるが、札所では例外的に、翌年五月までに返済が可能な者に限って、一一・一二月に集積している銀子を貸与した。それには「奉行中」の審査を受け、「横目」の証判を必要とするが、返済に充てられて集積する米は毎年一〇〇〇石を上回ったようである(永尾「小倉藩の貨幣事情」、『北九州市立歴史博物館研究紀要』二)。
江戸時代信用貨幣としての「藩札」発行については、寛文元年(一六六一)の福井藩が最初といわれており、延宝六年の小倉藩札は一二番目位の早さであった(『図録日本の貨幣』2)。ところが宝永四年(一七〇七)一〇月幕府は、諸藩が軍用に備蓄している古金銀貨の新金銀貨への引き換えを命じる一方で、公鋳貨幣の通用促進のために、藩札の使用を禁止した(『御触書寛保集成』)。藩札は本来、領内限りの通用を原則とするが、小倉藩札の場合は、商用のため豊後・筑前・長門国までも使用されており、急の禁止令に人々は迷惑し、特に商売人たちは「周章」し、しばらくは騒動したという(「御当家続史」)。
享保一五年(一七三〇)六月、幕府は藩札使用を解禁した。その目的は、「銀貨不足・銀価高騰・米価低落の現象に対する是正策」と、「各藩の財政窮迫に対する救急策」を主眼にしたものであった(『図録日本の貨幣』5)。解禁にあたり、とりあえず大名の領国高によって使用年限を定めている。二〇万石以上は二五年、同以下は一五年を年限とするが、それ以降も引き続いて藩札の使用を望む場合には幕府勘定奉行の承認を得ることとされた。小倉藩はこれ以降明治維新を迎えるまで、幾多の屈曲を経ながらも銀貨代用の藩札を発行し続けた。