平野屋札の発行

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 文政一一年(一八二八)の夏、北部九州を襲った二度の台風は、小倉藩でも多大な被害をもたらした。同年の年貢減免高は、実に四万二二四〇石にも達し、農民生活の不安は藩経済の動揺を促進した。文政初年に一匁=銭六〇文であった藩札の交換相場は、同一〇年に五三文、同一一年四〇文と下落を続けていたが、さらに拍車がかかり、同一二年に二八文六分、天保二年(一八三一)には一八文にまで低落してしまった。天保二年秋に藩が家臣に提示した給米一石の買い上げ相場も、銀六三匁に対して藩札では三八五匁と、藩自身が藩札の価値を現銀貨の六分の一と認めざるを得ない状況に陥ったのである。
 同三年に藩札一匁が銭一五文にまで下落したところで、大坂今橋一丁目の両替商人平野屋(ひらのや)(高木姓)五兵衛を銀主にした、新規の「銀札」を発行することになった。一般には「平野屋札」といわれているもので、「漉立の厚紙」を原紙にして、額面一〇目は「ぼけ赤色」、五匁は「とき色」、一匁は「白色」、三分は「黄色」、二分は「青色」と識別している。また札の裏面には「平野屋極」の「古文字」を刷り込んだ。
 天保三年一一月一日に藩は、平野屋札発行について、次のような触(「御用廻文写」六角文書、九州大学九州文化史所蔵)を出した。
 
此度一統の融通として、銀本の加印致させ候新銀札通用申し付け候、尤も是迄の銀札取交ぜ立用勝手次第ニ候事
両替所治定の義ハ追て承り合申すべき事
札所ニては、是迄の銀札と此度の銀札との引替え方申達し置き候間、出張の役人へ万端承り合申すべき事

 
 世上での通用は二六日から始まったが、即座に古藩札の使用が禁止されたわけではない。しかし郡内の米相場は、平野屋札が一石=七〇目であるのに対して、古藩札は四三七匁五分となった。また古藩札を直接正銀貨に両替することはできず、まずは小倉城下宝町三丁目にある「札所(ふだしょ)」で平野屋札に交換し、その後平野屋の出店になっている京町一丁目の「新屋」で正銀貨と交換しなければならなかった(『中村平左衛門日記』)。
 平野屋札は古藩札に代わるものであったが、純粋な藩札というものでもない。同札の発行は、領民の通貨使用便利のためと言っているが、平野屋は小倉藩にとっては「大坂御徳意の者」であり、引き換え準備銀など、平野屋に負担の肩代わりを期待したものと思われる。また先の触は札発行に続けて、追々「国産方」役所の設置にも言及し、「国産仕入れ方の義ニ付、御為筋の義存じ付もこれ有り」との思いも明らかにしている。すなわち、国産品買入れのための資金としての運用も考えていたのである。