同三年に藩札一匁が銭一五文にまで下落したところで、大坂今橋一丁目の両替商人平野屋(ひらのや)(高木姓)五兵衛を銀主にした、新規の「銀札」を発行することになった。一般には「平野屋札」といわれているもので、「漉立の厚紙」を原紙にして、額面一〇目は「ぼけ赤色」、五匁は「とき色」、一匁は「白色」、三分は「黄色」、二分は「青色」と識別している。また札の裏面には「平野屋極」の「古文字」を刷り込んだ。
天保三年一一月一日に藩は、平野屋札発行について、次のような触(「御用廻文写」六角文書、九州大学九州文化史所蔵)を出した。
此度一統の融通として、銀本の加印致させ候新銀札通用申し付け候、尤も是迄の銀札取交ぜ立用勝手次第ニ候事 | |
一 | 両替所治定の義ハ追て承り合申すべき事 |
一 | 札所ニては、是迄の銀札と此度の銀札との引替え方申達し置き候間、出張の役人へ万端承り合申すべき事 |
世上での通用は二六日から始まったが、即座に古藩札の使用が禁止されたわけではない。しかし郡内の米相場は、平野屋札が一石=七〇目であるのに対して、古藩札は四三七匁五分となった。また古藩札を直接正銀貨に両替することはできず、まずは小倉城下宝町三丁目にある「札所(ふだしょ)」で平野屋札に交換し、その後平野屋の出店になっている京町一丁目の「新屋」で正銀貨と交換しなければならなかった(『中村平左衛門日記』)。
平野屋札は古藩札に代わるものであったが、純粋な藩札というものでもない。同札の発行は、領民の通貨使用便利のためと言っているが、平野屋は小倉藩にとっては「大坂御徳意の者」であり、引き換え準備銀など、平野屋に負担の肩代わりを期待したものと思われる。また先の触は札発行に続けて、追々「国産方」役所の設置にも言及し、「国産仕入れ方の義ニ付、御為筋の義存じ付もこれ有り」との思いも明らかにしている。すなわち、国産品買入れのための資金としての運用も考えていたのである。