例えば天保七年一二月、企救郡では「国産方」から拝借した「新札四拾貫目」の返済方法について、筋奉行を通して「御本方」役人と協議をしている(『中村平左衛門日記』)。国産会所が貸与する平野屋札について、両替を含めた後日の処理方法を藩と平野屋との間でどのように取り決めていたのか分からないが、藩にも処理の責任が付帯していた可能性は否定できない。
次の史料は、平野屋札の使用が停止になった以後、天保九年閏四月二日のものと推測されるが、重要な部分を抜粋引用しておく。勘定小頭役(こがしら)所の「半太」が、行事村の商家飴屋の主人玉江彦右衛門に宛てた書状(玉江文書、北九州市立自然史・歴史博物館所蔵)である。
一 | 定で御承知も下さるべく、此度大坂表において、御国産諸品御取組の儀、島大夫(島村十左衛門)様より平野屋え御沙(汰脱)ニ相成、態々豊彦罷下り候ニ付、右荷物世話の義商法方ニて引受け居り候えども、……兎角埒明きかね、……先ず差当り貴家の義も兼ねて大坂表生蝋御取組の問屋もこれ有り候ニ付ては、此以後平野屋え向け差し登され候義、何とも御迷惑ニ存じ候えども、此度御仕組第一の先陣致され候て、生蝋始め諸産物とも同店え御廻し込候義は、出来致すまじき哉、此儀相叶候えば、第一島大夫様え対し候ても、御忠節相立ち、御領中商法の手本ニ相なり候ハヽ、追々外方よりも同様相運び候様相なり申すべく哉ニ存じられ候 |
すなわち、家老島村十左衛門は国産仕法として、大坂における小倉藩産物の取り扱いを平野屋に委嘱したのである。しかし領内から大坂に回送される産物が、期待したほどには平野屋に持ち込まれず、大変心配している。これまでに取引の問屋があるとは思うが、まずは飴屋が平野屋に諸産物を回送してくれるならば、「領中商法の手本」になり、追々と他の商家も平野屋に回送するようになるであろう。迷惑とは思うが、「御仕組」の先陣をきってほしい。家老島村様への忠節ともなる。
天保期の国産仕法には、領内産物の大坂平野屋回送が見込まれていたのである。文政期の国産仕法においても、藩札で買い集めた産物を大坂に回送し、正銀貨を入手することで藩財政の建て直しを期待したのであるが、肝心の藩札の信用低落で挫折した。これに代わるのが平野屋ということになる。
しかしこの平野屋札も次第にその価値が低落していった。そこで天保七年(一八三六)に再度、藩の責任で平野屋札に代わる「国札」(藩札)を発行することになるが、平野屋との貸借関係は解消できなかったものと思われる。平野屋札通用停止後も、産物の平野屋回送を求めているのは、そのような事情によるものであろう。