天保七年夏、小倉藩は幕府から美濃(みの)・伊勢(いせ)国の河川普請役を課せられたが、財政難のために「大坂御銀主」に借金を依頼したが断られ、領内で調達することになった。この「大坂御銀主」は、平野屋札の平野屋五兵衛と同じ屋号の平野屋安助といい、同族の可能性が高い。平野屋五兵衛は同じ平野屋の中でも功績があり、「高木」姓を名乗ることが許されている。安政二年(一八五五)の小倉藩「大坂留守居日記」(北九州市立自然史・歴史博物館所蔵)に記されている、蔵屋敷出入りの大坂商人としても、「高木五兵衛」とある。ちなみに同年の出入り大坂商人は、高木(平野屋)五兵衛のほかには、高池(鴻池)栄次郎・布屋安兵衛・平野屋作兵衛・同元三郎・同彦兵衛・助松屋半右衛門・同長兵衛・同与兵衛・出雲屋三郎兵衛・富田屋市兵衛などである。
新たな借金を断られた藩は、金三万両を郡内から調達しようとしたが、一万両分は行事村の飴屋と宇島の万屋が用立てることになり、郡方の負担は総額二万四四〇〇両で、これは「差上切」となった。そして藩は、「御用銀」差し上げの見返りとして、次のような褒賞を用意した(『中村平左衛門日記』)。
一、 | 二〇〇両以上 | 代々帯刀、三人扶持 |
一、 | 一〇〇両以上 | 帯刀御免、尤地はん(是迄)帯刀の者は代々御免 |
一、 | 五〇両以上 | 苗字御免、一人扶持 |
一、 | 三〇両以上 | 苗字、門松 |
一、 | 二〇両以上 | 苗字・門松の内一方御免 |
一、 | 一〇両以上 | 上下御免 |
一、 | 五両以上 | 脇差御免 |
このような状況下にあって、藩に国札両替の準備銀を用意する余裕はなく、国産方御用掛りの商人に、札高一五九〇貫目の両替引き受けを要請した。国札と正銀貨との交換率は「六歩差」(六%)なので、引き換えに必要な正銀貨は一五〇〇貫目ということになる。実際には、藩が四五〇貫目を無利子で貸与し、残りの一〇五〇貫目を国産方商人が負担する。この国産方商人は城下町の商家であるが、その中に一人、城下馬借町に出店を構えた飴屋彦右衛門の名前がある。
ところが天保八年一一月に、藩は両替引受け高の増額を求めた。当然藩からの貸与銀も六〇〇貫目に増額されるが、国産方商人の負担額は一四〇〇貫目となった。そこで国産方商人は、新たに城下町の米屋喜兵衛のほかに、宇島の万屋を加えることにした。しかし、国札の発行高は増える一方で、天保一一年の流通高は四〇〇〇貫目余にも達していたのである。ここに至って藩は、郡方および在郷町商人にも、準備銀の負担を要請することにした。藩からの「出金」は別にして、幾多の協議を経たのちに、城下町商人の負担額を金六四〇〇両、郡方を九六〇〇両とすることで決着した。郡方における負担の内訳は表15の通りである。
表15 郡方両替負担金 | |
総額 | 9,600両 |
内 | |
六郡 | 6,000両 |
玉江(飴屋)彦右衛門 | 1,500両 |
万屋助九郎 | 1,500両 |
新屋庄蔵 | 300両 |
柏屋勘七 | 300両 |
ここでは飴屋・万屋に加えて、さらに行事の商家新屋と、大橋の商家柏屋の名前が見えており、当市域に本拠を構える在郷町商人の活躍のほどが窺えよう。