天保国札の発行

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 天保三年平野屋札発行当初の銭との交換相場は、札一匁=銭一〇〇文であったのが、同七年八月には八〇文に下落した。それでも古藩札ほどの信用失墜にはなっていないが、同七年九月、藩は平野屋札通用をやめて、再度藩札の使用に切り替えることを表明した(この度の藩札のことを、藩は「国札」と称している)。この通達が町や村に知れわたるにつれ、交換相場は銭六〇文に落ち込み、さらに小倉城下や村方で「騒動」の噂がとぶほどに、世情不安がつのっていった(『中村平左衛門日記』)。なぜこの時期に平野屋札の使用を停止し、不評だった藩札を再発行することにしたのか、その理由は判然としない。
 天保七年夏、小倉藩は幕府から美濃(みの)・伊勢(いせ)国の河川普請役を課せられたが、財政難のために「大坂御銀主」に借金を依頼したが断られ、領内で調達することになった。この「大坂御銀主」は、平野屋札の平野屋五兵衛と同じ屋号の平野屋安助といい、同族の可能性が高い。平野屋五兵衛は同じ平野屋の中でも功績があり、「高木」姓を名乗ることが許されている。安政二年(一八五五)の小倉藩「大坂留守居日記」(北九州市立自然史・歴史博物館所蔵)に記されている、蔵屋敷出入りの大坂商人としても、「高木五兵衛」とある。ちなみに同年の出入り大坂商人は、高木(平野屋)五兵衛のほかには、高池(鴻池)栄次郎・布屋安兵衛・平野屋作兵衛・同元三郎・同彦兵衛・助松屋半右衛門・同長兵衛・同与兵衛・出雲屋三郎兵衛・富田屋市兵衛などである。
 新たな借金を断られた藩は、金三万両を郡内から調達しようとしたが、一万両分は行事村の飴屋と宇島の万屋が用立てることになり、郡方の負担は総額二万四四〇〇両で、これは「差上切」となった。そして藩は、「御用銀」差し上げの見返りとして、次のような褒賞を用意した(『中村平左衛門日記』)。
 
一、二〇〇両以上代々帯刀、三人扶持
一、一〇〇両以上帯刀御免、尤地はん(是迄)帯刀の者は代々御免
一、五〇両以上苗字御免、一人扶持
一、三〇両以上苗字、門松
一、二〇両以上苗字・門松の内一方御免
一、一〇両以上上下御免
一、五両以上脇差御免

 
 このような状況下にあって、藩に国札両替の準備銀を用意する余裕はなく、国産方御用掛りの商人に、札高一五九〇貫目の両替引き受けを要請した。国札と正銀貨との交換率は「六歩差」(六%)なので、引き換えに必要な正銀貨は一五〇〇貫目ということになる。実際には、藩が四五〇貫目を無利子で貸与し、残りの一〇五〇貫目を国産方商人が負担する。この国産方商人は城下町の商家であるが、その中に一人、城下馬借町に出店を構えた飴屋彦右衛門の名前がある。
 ところが天保八年一一月に、藩は両替引受け高の増額を求めた。当然藩からの貸与銀も六〇〇貫目に増額されるが、国産方商人の負担額は一四〇〇貫目となった。そこで国産方商人は、新たに城下町の米屋喜兵衛のほかに、宇島の万屋を加えることにした。しかし、国札の発行高は増える一方で、天保一一年の流通高は四〇〇〇貫目余にも達していたのである。ここに至って藩は、郡方および在郷町商人にも、準備銀の負担を要請することにした。藩からの「出金」は別にして、幾多の協議を経たのちに、城下町商人の負担額を金六四〇〇両、郡方を九六〇〇両とすることで決着した。郡方における負担の内訳は表15の通りである。
 
表15 郡方両替負担金
総額9,600両
六郡6,000両
玉江(飴屋)彦右衛門1,500両
万屋助九郎1,500両
新屋庄蔵300両
柏屋勘七300両

 ここでは飴屋・万屋に加えて、さらに行事の商家新屋と、大橋の商家柏屋の名前が見えており、当市域に本拠を構える在郷町商人の活躍のほどが窺えよう。