こうした現状を危惧したのであろう、安政二年八月晦日付けで、私札引き換え期限に関する達しが出された(「安政弐卯歳御用方日記」友枝文書、九州文化史所蔵)。
京都・仲津・上毛三郡左の者共自分切手、いまた引替え残りもこれ有ニ付、右切手札所持致し候者これ有候ハヽ、当九月中を限り引替え申すべく候、其後の義は通用留め申し付け候条、早々村々え申し達し、人別え申し聞かせ候様、取計らい申さるべく候、以上 |
八月三十日 |
京都郡行事村 玉江彦右衛門 |
同村 新屋半六 |
仲津郡大橋村 柏木勘八郎 |
上毛郡宇島 万屋助九郎 |
飴屋は安政二年五月段階に、藩への「御用借」銀三〇〇貫目貸与による資金難を理由に、私札引き換え期限の五ヵ年延長を要望していた。郡代も執り成しを図ったが、この処置は「御職様」(家老島村志津摩)の強い意志であることから如何ともしがたく、引き替え期限を「九月中」とし、以後の通用を固く禁止されたのである。
同年一〇月九日、新屋札の「遣出の高」(通用額)八〇貫目の内、引き換え回収した七八貫七七六匁五分の札を切り捨て、札の版木表・裏六面と加判一〇点を提出した。引き換え残高は一貫二二三匁五分である。
飴屋の場合は、実際の「遣出高」は三五〇貫目に上っているが、一〇月一八日までに三四七貫三八七匁八分を回収し、その札は切断された。残高は二貫六一二匁二分である。そして版木一二面と加判一七点は、行事村の延永手永宿において、前者は「三ツ程」に、後者は「二ツ割程」に切断されたという(『中村平左衛門日記』)。ちなみに、飴屋の第二次札の版木は二点ほど伝存しているので、この時に切断されたのは三次札の版木だったものと思われる。