私札通用の禁止

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 天保年間に商家私札が発行されたことは前記の通りであるが、嘉永二年(一八四九)二月に「郡内え切手摺立て遣い方致し候ものこれ有哉……咎方申付け候」(「国作手永大庄屋日記」)という触れが出ている。そして同三月には、京都郡内「大橋村柏屋勘七・本庄村庄三郎」両人の発行した札で、未だ回収できていないものがあるとの記録があり、少なくとも嘉永初年には、私札の発行が禁止されていたのである。この私札発行の禁止は、幕府が天保八年(一八三七)に「金銀札紛らわしき札遣の義、相成らず」と触れ、弘化二年(一八四五)再度「堅御停止」の達しを出したことによるものである(「同日記」)。嘉永六年(一八五三)三月段階で柏屋の場合は、発行額三〇貫目の内八〇〇目分の回収残があるといい、通用に制限がかかったことが窺える。しかし全く通用しなくなったわけでもなかったようで、残額の引き換えは嘉永五年中に八三匁、同六年に一五匁、安政元年(一八五四)に七匁、そして同二年は五月までに一五六匁で、なお五三九匁が残った。
 こうした現状を危惧したのであろう、安政二年八月晦日付けで、私札引き換え期限に関する達しが出された(「安政弐卯歳御用方日記」友枝文書、九州文化史所蔵)。
 
京都・仲津・上毛三郡左の者共自分切手、いまた引替え残りもこれ有ニ付、右切手札所持致し候者これ有候ハヽ、当九月中を限り引替え申すべく候、其後の義は通用留め申し付け候条、早々村々え申し達し、人別え申し聞かせ候様、取計らい申さるべく候、以上
八月三十日
京都郡行事村 玉江彦右衛門    
同村     新屋半六      
仲津郡大橋村 柏木勘八郎     
上毛郡宇島  万屋助九郎     

 
 飴屋は安政二年五月段階に、藩への「御用借」銀三〇〇貫目貸与による資金難を理由に、私札引き換え期限の五ヵ年延長を要望していた。郡代も執り成しを図ったが、この処置は「御職様」(家老島村志津摩)の強い意志であることから如何ともしがたく、引き替え期限を「九月中」とし、以後の通用を固く禁止されたのである。
 同年一〇月九日、新屋札の「遣出の高」(通用額)八〇貫目の内、引き換え回収した七八貫七七六匁五分の札を切り捨て、札の版木表・裏六面と加判一〇点を提出した。引き換え残高は一貫二二三匁五分である。
 飴屋の場合は、実際の「遣出高」は三五〇貫目に上っているが、一〇月一八日までに三四七貫三八七匁八分を回収し、その札は切断された。残高は二貫六一二匁二分である。そして版木一二面と加判一七点は、行事村の延永手永宿において、前者は「三ツ程」に、後者は「二ツ割程」に切断されたという(『中村平左衛門日記』)。ちなみに、飴屋の第二次札の版木は二点ほど伝存しているので、この時に切断されたのは三次札の版木だったものと思われる。