郡方御改法

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 天保一一年九月、藩は年貢収納事務に関する「御改法」を提示した(『中村平左衛門日記』)。
 
筋奉行中
代官役中
此度御改法仰せ出され候ニ付、郡々両役万端申し談じ、御為宜しく相勤められ候
当秋郷御蔵相止め、御蔵方出郷に及ばず、収納の義ハ、筋奉行・代官手限り取計らい仰せ付けられ候段、御達これ有り候、且又両役申し談じ、御為宜しく取計らわれ候
子九月

 
 すなわち、年貢米の収納については、御蔵番・郡目付・六郡回役など、藩方諸役人の「郷御蔵」出張は取りやめ、筋奉行と代官とが万事相談の上、一切を取り仕切ることになった。そこで収納の実務は、各手永の手代と子供役・村役人が、米検査から収納までの実務を担当するというのである。当地方の実態は分からないが、企救郡では郷蔵とは別に、郡内四カ所に仮納蔵を建設して、筋奉行・代官と大庄屋・子供役・手代が出張して各村からの年貢米を収納した。
 また、年貢率「定免」に依存のない郡には検見方役人は出張せず、「当川成・古川成」の場所は筋奉行と代官が確認する。「欠免」(年貢率減少)になりそうな郡に限って、これまでのように検見方役人が出張する。
 収納俵への入実については、古くは四斗量り切りの上に、「団扇打ち込み」(検査)分として四合を加えて、四斗四合であった。それが「中古」には、さらに少々の「入米」を加えて一俵が四斗八合入りになっていた。今度の「御改法」では、「四斗二升計り立」から検査分の四合を除いて、四斗一升六合を基準の入実高とし、計量の際にこれに不足すると「欠米」となり、「込ミ米」を要求されることになった。実質的な年貢増徴である。
 この「御改法」の一環として、領内諸産物および「散米」(年貢納入の後、村方に残っている米)の売買については、行事村飴屋の支配人玉江義平と宇島の商人万屋助九郎の両名が担当することになった。玉江義平が田川・京都・仲津の三郡、万屋助九郎は築城・上毛の二郡を受け持ち、企救郡については小倉城下宝町一丁目に設置された産物会所に持ち込む。