産物の生産と櫨植樹

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 安政元年(一八五四)、郡方行政を統括する郡代より国産品の生産奨励が布達された。それによると、企救郡については道原(どうばる)村の炭焼き、頂吉(かぐめよし)村の紙漉き、曽根・門司村の製塩があげられるが、全領六郡共通の産物として、次の七種類があげられている(『中村平左衛門日記』)。
 
桑を植付け、蚕取り候事
田畑ニ相成ざる地へ麻を植え、苧を植え候事
野山ニ楮を植え候事 一葛を取り、葛布桍を織立て候事
櫨を植え、生蝋を取り候事
綿宜しき場所へ植付け候事
山を伐荒さず、雑木を立て候事

 
 そして、これ以外にも思いつきの産物を山で栽培すれば、これを藩が買い上げるというのである。
 右の産物の中では、櫨栽培による生蝋の生産・販売は、手広に行われたようである。小倉藩における櫨栽培の早い例としては、築城郡安武手永大庄屋の武兵衛が櫨樹の殖産を奨励し、延宝年間(一六七三~八一)に藩から村々に櫨苗が下付されたことが指摘されている(『福岡県史』三巻下冊)。そして寛保三年(一七四三)には山奉行から築城郡安武手永に、櫨苗二〇二〇本が渡され、各村に植樹された。早くも宝暦九年(一七五九)には、大坂への櫨蝋回送販売が試みられている。安永二年(一七七三)安武千永大庄屋甚内は、自ら仕立ての櫨山経営による収益から銀二貫目を藩に上納しており、櫨植樹の効果は十分だったようである。
 安永年間(一七七二~八一)には築城郡伝法寺村の堅蔵に、櫨苗六万本の育成が指示され、その内から企救郡に一万一六三〇本、田川郡に一万四六二〇本、築城郡に六一〇六本、上毛郡に二七七五本、そして京都郡には五八八四本、仲津郡にも五二一〇本が植えつけられた。残りは「勝手次第、何方ニなり共売払」うことになった。