生蝋と板場

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 採取した櫨実を臼で搗いて粉末にし、これを蒸したのちに袋に入れ、「船」と呼ばれる絞り器で絞り、蝋燭の材料となる生蝋(きろう)を生産する。この作業場を「板場(いたば)」というが、寛政元年(一七八九)閏六月、築城郡安武手永から「大橋御板場」に、櫨実三万六〇〇〇斤程の買上願いがあった。しかしこの時は、「御入用ニ御座無し」と断られ、小倉城下米町の商人岩田屋武助に売却された(「安武手永大庄屋日記」)。右事例から大橋村に、藩営の板場が設置されていたことが窺える。櫨実の購入は板場職の者に限られていたが、板場から遠方の百姓の利便性や、前貸借金の高利息による櫨実値段不折り合いなどの諸問題を解消するために、文政六年(一八二三)九月から各郡内に櫨実問屋を置くことになった。そして天保一〇年(一八三九)八月に生蝋方会所が設置されて、喜久田丈助と富久又作が郡中生蝋方に就任し、領内産生蝋の集荷が図られた。翌年には大橋村の柏木(柏屋)勘七が「江戸廻生蝋御会所御用掛」となり、江戸への回送も計画されている。
 柏木勘七はこの頃、大橋町庄屋を勤めるほかに、同町の松屋常右衛門とともに、企救郡田野浦に設置された産物買集所の「諸問屋」を引き受け、さらには御元方役所に集積された正米の販売元締め、郡中の炭・材木座方なども担当している。柏屋は領内産物の集荷・販売に大きな役割を果たしているが、嘉永六年(一八五三)柏木勘八郎は「試として蝋板場稼仕度」として、板場の建設を申請した。その運上銀は四三匁である。
 柏屋に残る嘉永五年の大橋「御用板場手控心覚」によると、同板場の絞り器「船」の規模は「竪木五面木」というものである。藩が嘉永四年(一八五一)に計画した「御用板場」の規模は、小倉城下・田川郡・仲津郡の三ヵ所に、全体で竪木一五面木というから(野口喜久雄「小倉藩における国産政策と御仕入板場」、九州大学教養部『歴史学・地理学年報』第六号)、仲津郡大橋村の板場は全体の三分の一の規模ということになる。ちなみに右御用板場では、嘉永三年冬に京都・仲津・田川郡から櫨実三七万五〇〇〇斤を購入した。その費用は櫨実一斤につき銭五〇文、銀一匁が銭一〇〇文の計算で、銀一八七貫五〇〇目となる。これに「五面打賃札」や「風袋目切」などの諸雑費二九貫五〇〇目を合わせて、生蝋生産にかかる費用は二一七貫目であった。これに対して生蝋の生産高は七万三、一二五斤で、問屋口銭・運賃・水揚料・老目切など一切の諸費用を差し引いた収益は二一九貫三七五匁である。さらに「蝋粕灰明俵」を販売した収入が一貫六〇〇目で、合計は二二〇貫九七五匁となり、生産費用に対する純益は三貫九七五匁である。前年も同量の櫨実を購入しているが、櫨実購入価格が一斤=三五文と安価であったことから、三五貫目余の収益をあげていた。この時期の櫨実に対する生蝋生産比率は、櫨実一〇〇斤あたり生蝋一九斤余で、生蝋一斤の値段は銀二匁七分から三匁ほどであった。柏木八郎は大橋御用板場の経営実績から、自身の板場建設を思い立ったのであろう。
 
写真16 蝋絞図『農家益』
写真16 蝋絞図
『農家益』(北九州市立自然史・歴史博物館所蔵)