飴屋の生蝋販売

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 飴屋(玉江家)の記録によると、同家は五代目当主喜兵衛(宗達)の時代、寛政元年(一七八九)に板場商を始めたという。
 天保一四年(一八四三)と推測されるが、飴屋は「生蝋」六〇万斤(六〇〇〇叺)の買い集めを想定している(「覚」玉江文書六五〇の六六)。その内訳は、田川郡で三〇万斤、仲津郡で一二万斤、京都郡で一八万斤、買入れ代金総額は六万両である。六〇万斤の生蝋の処理については、六万斤分は家臣や田川・京都・仲津三郡住人の、日用鬢付けに利用する。四万斤は同じく日用の蝋燭に利用。残りの五〇万斤を「他所売」に利用するというのである。櫨実から生蝋への「垂蝋率」は二〇%にも満たないので、六〇万斤の生蝋生産に使用される櫨実は三〇〇万斤以上になる。弘化・嘉永年間における飴屋の櫨実集荷高から見ると、右の「生蝋に六〇万斤は、櫨実の間違いである可能性もある。
 弘化元年から嘉永二年まで、六年間の櫨実集荷高を示したのが表18である。弘化元年から同三年までの三年間については「手櫨高」は不明であるが、この表からは、年々集荷高総量は減少しているのに対して、「手櫨高」は増加していることが分かる。しかし集荷高の大半は買い集めたもので、自己栽培の「手櫨高」は六%以下にすぎない。また集荷した櫨実は即絞られたわけではない。例えば弘化元年冬までに集荷した六六万四七〇〇斤については、翌二年一二月一五日から同三年一二月二八日まで、約一年をかけて打櫨され、残りはしばらく蔵に保管されている。すなわち、その年の集荷高が即その年の生蝋生産高に直結するものではない。ちなみに、この頃の飴屋板場での櫨実処理量は、一月に一万五〇〇〇斤から四万五〇〇〇斤である
 
表18 飴屋櫨買元高単位:斤
年代買櫨高手櫨高合計
弘化元年664100.0 664100.0
  2年446346.5 446346.5
  3年456951.5 456951.5
  4年402934.018500.0421434.0
嘉永元年393689.520482.0414171.5
  2年381491.524601.5406093.0
合計2745513.063583.52809096.5
出典:弘化4年未3月改「年々櫨買元覚 新七」(玉江59)

 飴屋の櫨実買い集め方法の全貌は分からないが、少し事例を検証してみると、文化二年(一八〇五)に長木村喜平治は、櫨木一二本を銀五七匁五分で飴屋に質入し、質入期間は飴屋が櫨実を収穫することを約している(「櫨木質入証文」玉江文書一〇四の一九)。文政五年(一八二二)「豊前河内」の吉武壮右衛門は、櫨実買い集め資金として玉江彦右衛門から銀一貫目を借用し、期限までに返済できないときは「櫨実御渡」という条件の借用証文(玉江文書八一四の六)を提出している。この「豊前河内」は上毛郡内と推測され、資金貸与を契機にした広範囲の櫨実集荷が行われたものと思われる。また同一二年には延永手永の山口村常七は、年貢納入に指し詰まり、櫨木一七本を代銀札一貫二〇〇目で飴屋に売り渡した(「永代売渡櫨木証文事」玉江文書八〇九の二四)。この他に櫨実の引き渡しを条件に、金銭前貸しの事例も多く見られる。生産者農民は櫨栽培に生活費補填を期待し、飴屋は櫨実による生蝋生産・販売に利潤を見込んでいた、両者の関係が窺える。
 さて、飴屋は生産した生蝋の販売先として、大坂・下関の商人を対象にしている。大坂池田屋への各廻船の生蝋輸送高と販売決算を示したのが表19である。しかしこの表は伝存する仕切書を集計したもので、飴屋から池田屋への回送の全貌を示したものとは言いがたい。そのような前提の上で、文久三年(一八六三)仕切書の生蝋一四二丸(重量二、一三五貫八三〇目)の販売代銀は六三貫七五四匁四分一厘であるが、輸送量や諸雑費に一貫一五五匁八分一厘かかり、収益は六三貫五九八匁六分となる。同様に計算して、元治元年(一八六四)は生蝋四四丸について、一九貫六七三匁五分七厘の収益となる。
 
表19 大坂池田屋生蝋仕切
仕切り年月日入荷日種類船名正味重量(貫)代銀(匁)歩引・運賃・掛り物(匁)引残銀(匁)
文久3.4.15戌11月11日〓印豊前蝋50丸幸得丸繁蔵船742.24025838.64440.8825397.76
4月7日二印弐番蝋13丸幸得丸伝右衛門船197.9503919.8086.643833.16
4月7日〓印豊前色次蝋23丸幸得丸伝右衛門船348.25011055.55194.5011861.05
文久3.6.276月16日〓印豊前色次蝋33丸幸得丸伝右衛門船497.00015060.60271.0514789.55
6月16日二印弐番蝋10丸幸得丸伝右衛門船152.5202933.0765.832867.24
文久3.11.2510月25日二印豊前弐番蝋13丸幸得丸伝右衛門船197.8704946.7596.914849.84
文久3年合計 2135.83063754.411155.8163598.60
元治元.3.102月23日二印豊前弐番蝋7丸幸得丸伝右衛門船107.0902490.4652.902437.56
2月23日〓印豊前蝋20丸幸得丸伝右衛門船302.4709917.04 
2月23日〓印豊前色次蝋5丸幸得丸伝右衛門船74.9002304.61
 12221.65222.2111999.44
元治元.11.96月8日二印豊前弐番蝋6丸三宝丸弥左衛門船89.8102641.4750.412591.06
11月3日二印豊前弐番蝋6丸正宝丸久兵衛船91.6802696.4750.962645.51
元治元年合計 665.95020050.05376.4819673.57
出典:「仕切覚」(玉江文書114-1~11)

 池田屋と飴屋との商取引に関する実際の清算は、年二回に分けて行われている。販売した生蝋は、その年に回送されたものとは限らず、前年分も含まれるので、年毎の生蝋回送高とその販売収益を同一年で集計することは極めて困難である。文久三年両者間の「金銀差引通」(玉江文書一七九の一)では、四月から六月までの間に池田屋は、飴屋から入荷した生蝋の内、二九九丸を売り捌き、その収益を一三九貫五一五匁九分三厘と計上した。次いで同年一一月から翌元治元年三月までの、販売高二六五丸については、一三二貫二六三匁四分の収益を計上している。池田屋と飴屋との関係は、飴屋から池田屋に物資が輸送されるだけでなく、飴屋は池田屋を通して上方の物資を購入しているので、生蝋の販売収益はその購入物資費用と清算されるのである。
 飴屋は上方に輸送するほかに、下関の北国屋佐兵衛や菊屋儀兵衛などにも生蝋を送っている。その中には、飴屋の手持ち品以外に、「丸屋市兵衛分」・「いつミ屋利兵衛分」というように、他家の生蝋も含まれている。飴屋が輸送を請け負ったのであろう。ちなみに文久元年九月に北国屋佐兵衛から飴屋に出された決算書(「売仕切」玉江文書一一四の一一)では、八月一三日に生蝋三〇叺が送られ、販売代銀一二貫三四八匁から諸雑費二九三匁五分九厘を引いて、一二貫五四匁四分一厘、金にして一八七両三分が収益として計上されている。このように、櫨栽培・生蝋販売は貴重な現金収入源になっていたのである。
 
写真17 池田屋仕切覚
写真17 池田屋仕切覚
(玉江文書 北九州市立自然史・歴史博物館所蔵)