寛政二年(一八〇〇)、幕府は文教刷新策の一環として神田湯島の林家の私塾を官立の昌平坂学問所と改め、旗本の子弟教育にあたらせた。これにならって諸藩も藩校創設に力を注ぎ、宝暦から慶応年間にかけて二一五藩に設けられた。
小倉藩では元文五年(一七四〇)、四代藩主忠総の頃から藩士教育が活発になった。宝暦八年(一七五八)、藩主が石川正恒に命じて学問所「思永斎」を設けた。これが後に、藩校「思永館」へと発展した。
近世の教育機関としては、武士階級の藩校に対して、庶民を相手にする寺子屋、私塾があった。近世初期は武士階級が政治的・経済的に強固に主導していたので、教育機関といえば、その対象の多くは武士階級に限られていた。世の中が平穏になると、庶民の経済活動が盛んになり、経済的に余裕ができたのと、必要性にも迫られて、教育熱が盛んになった。