塾生の年齢は大体一五歳以上で、入塾以前にすでに寺子屋で文字の読み書き、簡単な漢文の素読を受けている者が多かった。そして、優秀で向学心があり、さらにある程度経済的な余裕のある家庭の子弟が塾に入門した。だから、寺子屋は初等教育機関であり、塾は高等教育程度のものであったと言える。
小倉藩内では著名な塾は、京都郡に水哉園(すいさいえん)、企救郡に晩成(ばんせい)塾、田川郡に義井(ぎせい)塾、上毛郡に蔵春園(ぞうしゅんえん)があった。
京都郡、仲津郡においても相当数の塾があったといわれるが、その教育内容は寺子屋と塾の中間的な性格だったと思われる。具体的な教育内容を示す資料はなく、寺子屋、私塾の区別は判然としないが、散見できるものをあげてみる。
今井に谷頭文蔵(豊津藩士族)の漢学塾があり、後に初代行橋町長になった片山豊盛は、文久二年(六~七歳)から慶応元年(一〇歳)まで修学している。『京都郡誌』には、谷頭は「弘化三年私塾を開き、公暇子弟に教授す。慶応二年藩変動後、京都郡今井村に寓居し、専ら子弟を教ふ、後藩黌育徳館の教授となる」とある。
これ以外にも、大橋村に安広仙杖の漢学塾、大野井村に牧野桂叟の書道・漢学塾、岩熊村に藤本平山の漢学塾「巌邑堂(がんゆうどう)」、津積村に定村直栄・直孝父子の国学塾、彦徳村に吉雄敦の漢学塾「有朋園(ゆうほうえん)」、木山村に山口茂樹の塾などがあった。
なお、幕末から明治にかけてあった塾や寺子屋は、明治五年の学制の発布によって公立学校に移行したものが多いが、しばらく私立学校として存続したものもあった。