村上仏山は文化七年(一八一〇)豊前国京都郡上稗田村に生まれる。漢詩人、教育者。諱は剛。字は大有。通称は彦左衛門。号は仏山。明治一二年、七〇歳で没した。
仏山は江戸後期における代表的な漢詩人である。九州では広瀬淡窓・旭荘、恒遠醒窓、三浦梅園、帆足万里など著名な詩人が出ているが、なかでも村上仏山は、恒遠醒窓と共に豊前国を代表する詩人として多くの同人が訪れ、交流を求めた。水哉園の人間教育は、仏山自身の道徳の実践と詩を中心に据えた情操教育とが相俟って、有為な人物を輩出した。
「仏山ほど謙遜な人はない。自分の教えを受けた師に篤いばかりでなく、弟子を遇するにも情があり、父や兄のように慕われていた。真に書生を愛し、育才を楽しんだ。そのため水哉園の書生たちも、仏山に仕えて誠を尽くした」(森銑三著『人物逸話辞典』東京堂)
では、このような仏山の生まれ育った背景から生涯について詳しくみていこう。
村上家は代々、京都郡の大庄屋・庄屋を務めてきた農村の指導者クラスの家であり、教養の高い家系であった。系図は次のとおりである。
仏山以前の先祖たちは、漢学よりもむしろ和歌・連歌の伝統を代々引き継いできた。また村上家は、浄土真宗の信仰心の篤い家で、西本願寺や小倉の永照寺と深い親交を持っていた。
城井国綱の「仏山先生行状記」によれば、「十三歳のころ、詩を家兄義暁に学ぶ」とある。義暁(下本家の当主)も若い時、原古処・白圭・采蘋(さいひん)の父子に学んだようである。彦九郎の名で原父子の漢詩文に出てくる。
義暁とその息子の貫一郎とが、安政二年(一八五五)に伊勢参宮に出かけている。その際、紀行文「東遊稿」と「長峡舎歌集」などが残されているという。紀行文の中には和歌、連歌、漢詩などが詠いこまれ、その多彩な文才の一面をうかがうことができる。
連歌師里村玄碩の入門帳(宇佐市渡辺家)には村上彦九郎盛直という名が出てくる。他に稗田の人たちの名もあり、この地で盛んに連歌が巻かれていたことを物語っている。
江戸時代の女流漢詩人の第一人者である原采蘋が、遊学の途上に上稗田に立ち寄り詩会を開いた。その時に「村上彦甫(彦九郎)送行の詩」と題して七言律詩を残している。