村上仏山が最も尊敬し、生涯の師として慕ったのは、原古処・白圭・采蘋の父子である。
原古処(震平)は仏山より四三歳上で、明和四年(一七六七)九月二九日、手塚甚兵衛の二男として生まれ、原百助(坦斎)の養嗣子となった。
当時著名な福岡藩の亀井南冥の門に入り、その才能を発揮した。やがて「亀井門下の四天王」と言われるようになり、門下中では「原詩亀文」といわれ、詩においては原古処が、文章では亀井昭陽が最も優れていると賛えられた。
その後天明六年(一七八六)、養父百助が病気になり、隠居を願い出たため、古処は秋月に呼び返され、二〇歳で稽古館の訓導となった。寛政一二年、稽古館の教授となる。自宅で開いていた私塾・古処山堂には、古処の才を慕って多くの門人が集まってきたという。
文化五年(一八〇八)年、原古処は馬廻格、蔵米一〇〇石を与えられて昇進した。文化八年には御納戸頭、稽古館教授兼務となり、参勤交代では藩主と共に江戸に上った。
しかし、同じ文化八年には辛未の変(織部崩れ)が起き、翌年六月、突然退役を命じられ、家業御免となり、平士となった。
文化一〇年夏、秋月に帰った古処は隠居を許され、家督を英太郎(白圭)に譲った。そして自分は若い者のために詩作の指導を行った。「天城詩社」などというのはその頃作られている。
原古処の代表的作品には『古処山堂詩集(稿本)』二四巻、『古処山樵詩集』、『逍遥余適』二巻、『臥雪余稿』二巻、『詩文雑鈔』一巻がある。
仏山は文政八年、古処山堂に在塾中、福岡藩の亀井塾に遊び、亀井昭陽、塾長の広瀬旭荘と親しくなる。この時、筥崎の「玉せせり」の祭り見物に行ったり、詩について議論を交わしたようである。
仏山は師の原古処、その子どもの白圭、采蘋に親しく教えを受けていたが、文政九年、突如、原古処が亡くなり、在塾二年余りでやむなく故郷に帰った。