見聞と交流を広める

516 ~ 517 / 898ページ
 その年、母のお民は、師を喪って悲嘆にくれている仏山を伴い、京都の西本願寺参詣の旅に出る。さらに足を延ばして大和、奈良、吉野の社寺、名所旧跡の見物をしたという。仏山はこの旅で大いに見聞を広めたようだ。
 文政一〇年(一八二七)、藤本平山(雪蔵)が岩熊村で「巌邑堂」という塾を開いていることを知った。そこには白圭、采蘋が時々やって来ていた。そればかりか他の詩人たちも集まってきて、一種の文学サークル「小倉山房吟社」ができていたという。若き仏山は欣喜雀躍して参加した。
 この藤本平山についての資料はなく、その経歴や作品はよく分からない。若い頃は江戸で学問をしたらしく、後に各地を遊学し、亀井塾や日田の咸宜園の人たちとの交流もあったようだ。
 平山没後、岩熊では弟子安田雲斎や友人が資金を出し合って「平山藤本雪翁之墓」を建立し、その徳を讃えている。この時代に『小倉山房唱和詩集』という本を出しているらしいが、未見である。
 文政一一年、仏山に大きな影響を与えた白圭が突然、岩熊村で亡くなる。三五歳の若さであった。仏山は大きな衝撃を受けた。門下生たちは白圭の柩を担ぎ、険阻な山道を遠く秋月まで送って行ったという。
 以後仏山は、定師につくことなく、各地の著名な詩人、教育者を訪ね、教えを請い、詩会に参加して交流を深め、見聞を広めていった。
 文政一一年、亀井昭陽の塾に学んだ。そのあと、一時、秋月の吉田平陽について学んだが、どういうわけか、すぐ辞めて帰郷している。
 天保元年(一八三〇)三月には仏山の父・盛之が死去している。
 二一歳の時(天保元年八月)、京都の高名な貫名海屋に教えを受けた。この頃、京都、大坂の一流の学者、詩人を知ったようである。このことが、後に『仏山堂詩鈔』を上梓する際、豪華な顔ぶれによる序、評の掲載につながる。
 天保三年、通称を彦左衛門と改め、近くの山の名(仏山(ほとぎやま))からとって仏山という号を使うようになった。
 その後も長府に行き、小田南〓、藤井貴吉らと親交を結んだ。天保五年には、肥前、筑後に行き、草場佩川、西鼓岳などとも交流した。各地を遊学すること六年余り、やがて自分の進むべき道を定めた。