塾則と進級制度

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 多くの塾生が生活していくにはある程度のルールが必要であり、「塾則」というものもあったであろう。安政六年(一八五九)九月二五日の日記に、「今日ヨリ塾法一新」とあるのは、そのことを示している。
 しかし、血気盛んな青年たちは、はめをはずすこともあったようで、時には破門、退塾になる者もいた。
 進級制度はあったに違いないが、資料がないので詳細には分からない。仏山自身は各地の私塾に出入りしていたので、他塾のものを参考にして作り、特に広瀬淡窓の咸宜園の進級制度を取り入れたのではないかといわれている。現存している断片的な資料によって推考してみたい。
 古賀武夫「村上仏山の水哉園在塾生の生活」(『西日本文化』二六九号、平成三年三月)によれば、京都郡勝山町矢山の進祥一郎氏宅にある古記録が残っている。この家の曽々父の進孝太郎の「秘事日記」によれば、明治九年(一八七六)八月に彼は入門(入門帳では一〇月になっている)。七月二八日に六等の大試験の進級試験を受け、一一月には五等の大試験を受けている。すべて合格したのであろうか、四等になっている。このことから考えると、やはり学力による段階をつけていたようである。
 塾の規則・進級制度などの体系的資料がないので、現存する「仏山堂日記」(途中に欠本があるが、天保一五年(弘化元、一八四四)より慶応二年(一八六六)までの一四冊)から関係事項を断片的に取り挙げてみる。ちなみに、「仏山堂日記」の内容は単なる身辺雑記ではない、むしろ私的な感情はほとんど記されていない。塾の出来事を中心に、藩の役人の出入り、動き、交友関係、天候、来客、家のことから、村の出来事、世情の動き、自分の詩の草稿、天候、風水害など実に広範囲にわたっており、郷土の歴史の貴重な資料でもある。
 次に「仏山堂日記」より塾則、進級制度、教育内容について記したところを一部抜き出してみる。
 
○天保一五年(弘化元・一八四四)七月二日、「塾中礼謁席改等昨日客来ニテ廃ス、今日執行、夜中昇進三書生ヨリ酒杯宴持出小宴」○同年八月朔日、「席改昇進之諸生中ヨリ酒肴持出シ饗応有之」○弘化二年三月朔日、「諸生中席序改、昇進之諸生觴余、母様ヲモ御招申ス」○弘化二年六月朔日「卯助上等ニ昇進」○同年七月八日、「孟子卒業、祝儀塾生酒肴持出堂上ニ宴」

○同年八月二日、「昨日階級昇進之書生ヨリ酒肴持出饗応」○同年十一月朔日「今夕昇進之諸生大秀、専之助新加生亀太郎余ニ觴ス」○同年十二月朔日、「昇進及新加之諸生貫一、文二、無門、一太郎ヨリ酒肴振舞有之本家独笑兄モ来席」○同年十二月四日、「守田卯助、近日大帰於塾中ニ送別宴ヲ設、同人天保丁酉入門、今年已迄九年送別之情可知」

○弘化三年三月朔日、「昇進新加之書生」○同年八月十八日「通鎧近々大帰」○同年閏五月朔日「左氏伝卒業祝儀、塾生ヨリ酒肴持出シ堂上ニ宴」○同年五月二日、「早起講古文」、○同年五月三日、「朝講古文、午後講小学」○五月二十七、「朝講大学」「長田美年、畑十六ノ数輩、本家ニ歌会之由」○五月二十八日「朝講古文、大学会読、午後小学講釈会読」○五月二十九日、「朝講大学」○同年六月三日、「朔日他行ニ付、今日席改礼謁致之昇進生哲之助、晴之助ヨリ酒肴持出堂上ニ宴」○同年六月九日、「四書輪読」、○六月十三日「朝講史記、曝書」○六月十八日「朝講詩、史記会読」、○二十二日「出塾之書生某ニ破門申渡」○二十八日「講蒙求并詩」○同年七月朔日、「塾生礼謁、大秀、卯助副塾監、卯助後見申渡ス、破門生断リノタメ定村玄甫及光川周英来話」○同年七月六日、「今夕旧例之祭星会執行(中略)来会之諸生三十余」○七月十六日、「依旧例前川ニ観月宴ヲ催」○九月朔日、「塾生礼謁、昇級生ヨリ酒肴持出、堂上ニ宴」○十一月朔日、「蒙求卒業会於塾中執行之由、諸生礼謁」○十一月五日、「塾生ト冬至会ヲ催、賦詩云」○二十九日、「塾生精掃」○十二月朔日、「塾生礼謁、昇級之諸生、一蔵、兎三郎、卓一郎、觴余、母様ヲモ御招請」○三日、「与諸子詩会」○二十日、「書経卒講ニ相成、卒業祝儀塾生酒肴持出、堂上ニ宴、母様モ御出相成」○二十一日、「塾生礼謁、席序改」○弘化四年二月一日「登級生觴余」○嘉永三年七月十一日、「晴之助塾長ニ命ズ」○三年十月朔日、「文恪ヲ上等ニ申付ル」○嘉永四年四月朔日、「仙杖ヲ塾副長ニ命ズ」○嘉永五年十一月朔日、「貫一郎、虎之助凖上等ニ昇級」○嘉永六年六月朔日、「貫一郎、上等ニ昇進」○安政六年九月二十五日、「今日ヨリ塾法一新」○慶応二年五月二十三日、「今般嘉三大帰ニ付塾中餞宴」

 
 咸宜園には、よく知られている三奪九級の月旦学級制度というものがあった。塾生は入門時、年齢、学歴、月齢及び身分や家柄など一切の特権を奪われ、誰も無級から出発しなければならなかった。月に九回の試験(試業)が行われ、学力の優劣によって席序と等級が決められ、月ごとに席序を作るために「月旦評」と呼ばれた。
 咸宜園では、全体を一級から九級まで分け、それぞれの級に上下があり、さらに一級の下に無級というのがあった。入門者は実力次第で、進級の早い者、遅い者の違いがあっても、順次に進級していく。最上級を都講といい、師匠の代講も務めた。自身で塾を開き、子弟を教えた者も多い。
 水哉園においても大略この制度を採用したようだが、かなりゆるやかであったようだ。進級試験も六級程度から始めたらしい。すなわち、六級から一級までの進級制度があり、その上に、凖上級、上級があり、この段階の人が塾副長、副塾監、塾長となり、また大帰(卒業)して故郷に帰ったのではないかと考えられる。在塾期間は大体三~四年であった。
 特に優秀な者は、さらに師匠の紹介で他の高名な師匠につくことがあった。例えば、友石子徳(晴之助)は水哉園では師匠の代講を務めた優秀な人であったが、大帰してから咸宜園に入門している。例外として、守田精一(卯助)は九年間在塾し、師匠の代講を長く務めた。