水哉園の入門帳によれば、天保五年(一八三四)から明治一五年(一八八二)の約五〇年の間、入門者は一二六七名(仏山の門弟一一一七名、静窓の門弟一五〇人)で、通塾者などを入れると約三〇〇〇名に上る。
入門者を職業別にみると、僧侶が四二九名で一番多く、神官、医師、その他としては大庄屋、子供役、庄屋の子弟、豪農、豪商、地域の有力者の子弟となっている。武士階級は当初藩校に学ぶので、数名のみ、あとは女子が、一名となっている。しかし、明治になって急激に士族の入門者が多くなる。
圧倒的に僧侶が多いのは、日田の咸宜園においても変わりないが、僧の経本は漢文で書かれており、漢文の知識が必要であったからである。また、村上家の宗旨が浄土真宗本願寺派で、小倉の永照寺の檀家であったことなどから、多くの寺の子弟が紹介されたためであろう。