仏山の勤皇思想

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 水哉園の座敷には原古処の書いた詩が掲げられていた。次の詩は村上仏山が郷里に帰る日、師の古処が餞別として贈ったといわれるものである。
 
  天孫国を闢(ひら)く大瀛の東
  蛮夷(ばんい)の夏(か)を猾(みだ)ると同じからず
  百億万年唯一姓
  星辰拱(こまね)いて五雲の中に在り

 
 要約すれば、「わが国は万世一系で、支那のように王者の姓を易ゆる国とは違い、尊き国体である」というもので、仏山は年の初めには必ず、敬慕してやまない古処のこの詩を塾の床間に掲げて、弟子と共に唱和したという。
 そもそもこの詩は古処が享和三年(一八〇三)に詠ったもので、「国体尊重」を明確に表した「雑詩九首のうち」の一首だという(山田新一郎著『原古処、白圭、采蘋小伝及詩鈔』)。
 当時の漢学者の多くは国家を重んじ、忠君愛国の思想を持っていたが、特に原古処にはそれが強かった。「亀井南冥の国体思想を承けた古処は、極めて明確な国体思想を有し、尊皇愛国、忠孝義烈の称揚者であった」(山田新一郎著『原古処、白圭、采蘋小伝及詩鈔』)。
 古処の尊皇思想は、師の亀井南冥の影響であり、それが白圭、采蘋にひきつがれ、さらに仏山に伝わった。采蘋の門生のなかから、海賀宮門、戸原卯橘のような勤皇の志士が出たのも、うなずけよう。
 仏山の門下生からは勤皇の志士は出なかったが、仏山の思想を引き継いだ者はいる。末松謙澄、吉田健作、吉田学軒などの著作には、それが色濃く出てくる。
 仏山自身も勤皇思想を表した詩を詠んでいる。
 
   無題
  落花紛紛雪紛紛
  雪を踏み花を蹴って伏兵起こる
  白昼斬取す大臣の頭
  臆臆(ああ)時事知るべきのみ
  落花紛紛雪紛紛
  或は恐る天下の多事此に兆するを

   登楼
  高き欄干の外 双眸(そうぼう)を放てば
  寒日沈まんと欲し 吾愁へんと欲す
  嶽樹蒼茫として鐘は雨を送る
  海門寥闊(りょうかつ)として鶻秋に横たふ
  布衣豈(あに)敢て奇論を為さんや
  肉食固より応に善謀を多くすべし
  聞説(きくならく)諸蛮互いに市を開くと
  天涯何処に是れ相州とせんや