この頃仏山は、近くの大野井村の庄屋の娘安広久子と結婚する。久子の弟仙杖(紫川)は『仏山堂詩鈔』の出版に貢献した。また仙杖の子の伴一郎は水哉園出身の俊才で、後にケンブリッジ大学を首席で卒業、官吏となって南満州鉄道総裁、法制局長官などを務めた。伴一郎の子の亥三郎も書家、さらにその孫の戌六も画家である。
久子の祖父の弟に漢学者・書道家の牧野鉅野(牧野家養子、『鉅野先生詩集』の著者)がいる。市河米庵に漢学・書道を学び、後に江戸で塾を開いて名をなした人である。鉅野の墓は東京品川区の泉岳寺にあり、墓誌に来歴が刻まれている。鉅野の子桂叟は小倉藩の書家であった。
仏山はこの牧野鉅野を敬慕し、その心境を詩に詠っている。「大野井村寓居感あって賦す」と題して、江戸で立派な学者として出世した鉅野に対して「偉なるかな、牧夫子」と畏敬し、自分は「井底の蛙」にならないようにと自戒している。