仏山が詩集の刊行を思い立ったのは、弘化三年(一八四六)五月七日に母お民の古稀の祝いの席だったという。この時、恩師定村直栄老人から、母親のために詩集の刊行を急ぐように勧められたともいわれる(友石孝之著『村上仏山-ある偉人の生涯-』)。
日記には、「慈母七十誕宴来客長田美年、久保凖右衛門、同次郎兵衛、光川東周、定村玄杏、同玄甫、同山城、平石湯山、村吉三郎、久保氏老母等之歌舞鶏鳴ニ至ル」と、たくさんの人が祝いにかけつけてきたことを記している。これらは歌人、大庄屋、医者、神官、儒家などであり、その後、浄瑠璃の錦紫大夫一座を招き、賀宴に華を添えた。
早速、仏山は詩集刊行の準備にとりかかった。まず、塾生のうち優秀な友石晴之助(子徳、慈亭)、里見文恪、守田房貫らに整理を依頼し、弘化三年から嘉永五年(一八五二)までの草稿のうちから整理、推敲していった。
やがて草稿が完成し、その後、各地の著名な詩人に序文、評、跋を依頼した。
初編には文政七年(一八二四)から嘉永二年までの詩文を収録した。
序文、評者には当時高名な詩人たちが名前を連ねている。貫名海屋、篠崎小竹、梁川星巌、草場佩川、後藤春堂、広瀬旭荘、西鼓岳、池内陶所ら八名を数える。