『仏山堂詩鈔』が出版され、多くの者がお祝いに駆けつけた。当時の出版状況からすれば、詩集の刊行は稀有のことであった。
しかし、あれほど待ち望んでいた母のお民が病の床に臥せてしまう。義弟仙杖が苦労の末にようやく、三〇〇部の詩集を持ち帰った。「仏山堂日記」には「去年十一月三日発程より凡そ十三ケ月を閲して帰る。拙集上木成就、今般三百余部持帰る。多年の大願、遂に熟す。大歓限りなし」とその感激が記されている。
母の枕元に出来上がったばかりの詩集を積み上げ、報告する。その様を嘉永五年一一月七日の日記に「母様病中御出叶わず、酒肴を呈し、目出度祝杯頂戴、年来の宿望相達し、母子歓泣す」と記す。
仏山は「孝子の至誠、孝心の念」の一つを果たしたが、一カ月後、母お民は永眠した。その後、仏山は三年間、喪に服して毎日墓参を続けた。