名声高まる

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 『仏山堂詩鈔』が出版されて以来、仏山の名声は高まり、多くの塾生が西日本一帯から来るようになった。やがて、この詩集が咸宜園などの塾の教科書にも使われるようになり、『安政三十二家絶句』、『安政名家詩鈔』などにも仏山の詩が収録されて、詩人仏山は益々知られるようになる。
 明治三年(一八七〇)には『仏山堂詩鈔』第二編を刊行、名を潜蔵と改める。
 次いで明治八年、弟子たちの強い進めで『仏山堂詩鈔』第三編を刊行する。
 仏山の詩の中から、農儒としての一面と田園詩人としての一面を顕著に示した二編を紹介する。
 
   偶詠(ぐうえい)
  農業儒(じゅ)を兼ねて跡自ら安し
  朝名市利相関せず
  一生の清福眼字を知り
  宿世の良縁身山に住む
  犢を牽き耕を試みるは何ぞ累とするや
  童を呼び讀を受けることいまだ閑を妨げず
  今朝、最も会心事あり
  煙雨の西疇に句を得て還りたり

   晩望
  晩雲湿(うるお)いて飛ばず
  村火遠くして依微(いび)たり
  多少秧(なえ)を挿(さしはさ)むの女
  青蓑(せいき)雨を帯(お)びて帰る

 
 明治九年九月には、中国の詩人の故事にならって「蔵詩巌」に詩集や著作などを納めた。
 明治一二年には、いよいよ仏山の身体の弱りが目立ちはじめ、心配した弟子たちが生墓(頌徳碑)を水哉園の一角に建立した。題字には末松謙澄の世話で伊藤博文、草場船山が撰文を書き、仏山の功績を讃えた。この年の五月二五日には、古稀の祝いが催された。多くの門人、知人、郷土の人たちが集まり、心からの祝福を受けたようである。