その後、水哉園は静窓(碩次郎)によって明治一七年まで引き継がれた。新しい明治の学制が公布されて、特色のある私学校として存続していたが、いよいよ近代の学制が確立して、公立学校へ移行し、五〇年余の歴史に幕を閉じた。
幕末から明治にかけての約五〇年間にわたり、村上仏山の水哉園は文化の種を蒔き、育ててきた。京築地域のみならず、西日本の文化人にも多くの影響を与えた。今日でも教育者として、詩人として敬慕されているゆえんである。
水哉園からは末松謙澄(ケンブリッジ大学卒業、内閣法制局長官、内務大臣、評論家)、安広伴一郎(ケンブリッジ大学卒業、枢密顧問官、南満州鉄道総裁)、吉田健作(官吏、近代工業の発展に貢献)、吉田増蔵(漢学者、昭和の元号の発案者)、杉山貞(教育者・初代小倉高等女学校長)、城井国綱(東京府会議員)、毛利保太郎(門司新報社長)などの優秀な人たちが出た。