女流漢詩人・原采蘋

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 原采蘋は仏山を少年のころから親しく教えていたので、心を許すところがあったとみえ、書簡で次のような心境を吐露している。「西帰以来、授読の間もなく、女工のみ日を送り、看書の暇これ無く面目ますます憎むべし、女となるは実に損に御座候」
 『仏山堂詩鈔』第三編には、
 「巌邑堂」の前を通り過ぎようとした折り、仏山は若き日、ここで女性先生の采蘋の情熱的な教え方、あざやかな姿が思い出され、それは中国の女傑曹大家に似ていると詠った。
 
  「過巌邑堂故趾」の五言絶句にいう、
  阿兄を補助し、功また多し
  一たび〓管を揮れば燗して花を生む
  遠山に得て翠蛾を余す在り
  見えざる当年曹大家

 
 仏山の自註にいう、「先生(白圭)妹采蘋女史、曾て来て講を助けしも、すでに没せし」と。
 原采蘋との師弟関係を示す次のような詩がある。
 
 原采蘋は久しぶりに武蔵国から秋月に帰郷してみると、自分のみならず父の古処、兄の白圭、公瑜などから教えを受けた仏山が立派な詩人、塾主になっていることを喜び、詩を贈った。原采蘋と仏山の温かい師弟関係を示している。
 
   贈仏山村上子
                   原采蘋
  久客遠く武蔵自り帰る
  故郷一変し他郷に似たり
  却つて隣国に来て相識を尋ね
  説いて弟兄に至り空しく断腸
  幸い斯文の後苑に伝ふるあり
  喜び看る家学遠方に及ぶを
  名声は千古消尽するなし
  夭壽は人間何ぞ傷(そこな)ふに足らんや

 
 その後、采蘋は嘉永三年(一八五〇)七月以来、筑前国の山家駅で私塾を開き、近郷の師弟の教育をしていた。当時の采蘋のことは「戸原卯橘日記」に生き生きと描かれているという(『筑紫野市史』)。