慶応二年から始まった第二次長州戦争で、小倉藩は長州に敗れ、城を自焼、香春に撤退した。そのために、筑前大隈から豊前小倉に通ずる街道は国境の猪膝宿で閉鎖された。その時、世の不穏な動きに水哉園の塾生は帰国していたが、肥前姫方の戒園寺智電、筑前の集成が、師仏山のことを心配して、上稗田に懸命に駆け、猪膝駅まで来た。そこで通行止めになり、やむなく手紙だけでもと、地元の人に依頼して、仏山にことづけた。
これに感動した仏山が詩を詠い、その前書に次のように記す。「西肥の智電、北筑の集成将に与(とも)に余を訪ねんとす、猪膝駅に到る、道梗(ふさが)りて通ぜず、乃ち一書を留めて、土人に托す、その書たまたま達す、感泣して此を賦す」