志士・戸原卯橘

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 戸原卯橘(とばらうきつ)は、秋月藩の医師戸原一伸の四男として、天保六年(一八三五)正月一一日に生まれた。五、六歳で既に書を読み、一〇歳で早くも四書五経を解した。また、「卯橘は神童というべし、我未だ才学彼の如きを見ず」と「采蘋日記」には記しているという。
 采蘋は江戸遊学の二〇年余を終え、五二歳で帰郷した。嘉永二年(一八四九)七月、門下生の少年戸原卯橘と手塚林三郎を連れ、村上仏山と筑前嘉摩郡小野谷の桑野家を訪ねている。仏山は既に四〇歳で、堂々たる私塾「水哉園」主人になっていた。卯橘はこの旅行中詩文を「北豊紀行」にまとめ、その添削を師の采蘋に請うている。原文は未見であるが、『筑紫史談』掲載のものと、「春山育次郎のメモ」より一部紹介する。
 嘉永二年(一八四九)七月二〇日、秋月を出発して二日目、二二日には大隈から香春の平石湯山(漢学者。仏山の母親の実家)に寄る。二三日、七曲峠(七折坂)に至った時、一五歳の少年は初めて海を遠望して感動している。今から見れば実に小さな旅であったが、多くの詩人に会って詩会、酒宴に付き合い、各地の名所を見て回り、自分の世界を広げることができた。
 
 頂きに出る。四眺、豁然。……周長は大洋に近く脚底に接する。畳山晴海。応接に一々暇なし。余固より山壑の際に長ずる。罕に海を覩る。今此の地に来る。感懐濶然として覚えず、快を称す。……村上仏山を訪ぬ。平石湯山、片山丹波先に来て会飲せし。期せずして相逢ふ。真に嘉遇と謂ふべし

 
 この日はおそらく、遠来の客、采蘋と仏山と弟子たちとの楽しい酒宴が開かれたであろう。
 翌二四日、「早起す。残雲一帯、なお仏山を擁くが如し。翠嵐檐に迫るがごとし。秀気は人を襲ふ。山は堂東一里許に在り健平自ら号して仏山と云ふ。盖し此の山に取ると云ふ」。
 采蘋、卯橘たちは景行神社、大島神社などを参詣したようである。そして日暮れに帰って来る。既に仏山は、庭に歓迎の酒宴の準備をしていた。「乃ち胡床を庭に移す。白露玉の如し。清風徐やかに来る。蓮葉を把りて杯に換える。或いは酢(さ)し、或いは酬(う)ける。放歌鼓興。拇戦勇を決する」
 翌二五日、仏山の案内で元永村に出かける。一行はある豪農の家で大歓迎を受けた。酒の飲めない卯橘は困惑する。「野夫(豪農の主人)酒を強いること太甚し。余固より甚しく喜飲せず。而して昨日の酔ひいまだ全解せず、心身頗る懊悩する。乃ち一小楼に上りて臥す」と。
 酒の席でも到底、師匠たちにはついていけず、遂に眠り込んでしまう。やがて今井の祇園社(牛頭天皇社)祀官であった出雲守の家に着き、宿泊する。
 二六日、「天皇祠に謁す。古木鬱然。磴逕其れ峻なり。帰りてまた片山氏福寿園に飯す。既にして片山丹波また酒肴を携え来て、飲す。午時樽を携えて出ずる」。卯橘の苦悩が目に見えるようである。
 次いで、沓尾村の村上幾太郎の家に行くと、盛饌を設けていた。この時、「予顧みて嘆く、流連飲瞰の間、酔うてまた醒め、醒めてまた酔う。唯酒は荒れるに似たり。詩文もまた惰廃実に慚づベきのみ」と記し、酒に悩まされ続けて詩文を考える余裕もなかった。
 その後、海辺に遊びに行く。赤い蟹を見て、地元の人が昔平家の落人が化したものだと言うのを聞いて、あまりに牽強付会であると記している。
 沓尾から舟を出して、詩会と酒宴が始まる。「船中に樽を傾け、各酔ひを成す」。やがて舟は行事に着く。長い夏の日は暮れ、上稗田の仏山の家に帰り着く。さぞかし、卯橘は大変だったであろう。
 二九日、近くの小川で魚を捕りに行く。「川浅く魚また多し。盖し此の里俗は深く親鸞の教えを信ず。殺を戒めることもっとも甚し。且つ沢粱に禁有り。而して民は重犯者なり。これ我が仁義の教えいまだ到らずして然りなり。これを思えば惨然」。とうとう慣れぬ酒を飲み過ぎて夕方から腹痛が起きて大いに苦しむ。
 三〇日、水哉園を辞す。見送って行く者は七曲峠まで着くと、酒を酌み交わし、いよいよ別れを惜しむ。
 こうして采蘋師弟は秋月へ帰っていった。当時の詩人たちの温かい交流の様を、この「北豊紀行」によって詳細に知ることができる。
 なお、戸原卯橘は幕末の勤皇党に加わり、播磨で殉難にあって、わずか二七歳で没する。