長梅外・三洲

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 梅外は英彦山の座主の祐筆、塾主をしていた。仏山と交流するようになったきっかけは分からないが、親しく行き来していた。長谷南粱として「仏山堂日記」には多く出てくる。
 しかし、自身が討幕運動をしていたためか、それとも子息の三洲が志士であったたせいか分からないが、日記中では変名を使用して訪れている。梅外は允、允文、野沢数馬、南粱、世文、又一、楳外、某外などを、息子の三洲は野沢主馬、横三、小野秀夫などの変名を使ったという。三洲の変名については『三洲長〓著作選集』(中島三夫編著、二〇〇三年三月刊、中央公論事業出版)に詳しい。
 長三洲は天保四年に生まれ、一一歳で咸宜園に入門し、その文才は先輩たちを驚かせたという。一五歳で九級下にまで昇る。二三歳の時、広瀬旭荘に招かれて、大坂の咸宜園の都講になる。安政五年(一八五八)頃から志士たちの考えに共鳴し、奇兵隊の中隊長となって活躍する。一時、幕吏の追捕を逃れて各地を転々とするが、この間、身の危険をおかして水哉園に立ち寄っている。
 その後、薩長連合なって明治政府が樹立すると、その才を買われて学校制度改革に取り組む。特に咸宜園の月旦法を参考にして明治五年の学制改革に貢献、文部大丞に任じられる。書にも秀でており、「三洲の書の手本」としてよく知られている。
 梅外が三洲の著書の題辞を仏山に依頼した手紙には「小学習字本を刊行するので、ぜひ、題辞か詩を書いて欲しい旨を頼む」とある。
 仏山は、長梅外が英彦山にいたので、お互いに行き来し、詩のやり取りをしている。仏山にも「憶彦山長南粱」、「別長南粱父子夜雨書」と題する詩がある。
 「仏山堂日記」より梅外、三洲関係の記事を取り出してみる。
 
弘化二年(一八四五)一月一五日、「彦山儒生野沢数馬男主馬召連来訪(「野沢」とあるのは長のこと)。
翌一六日、「野沢滞留」
弘化二年四月七日、仏山は守田卯助、片山岩尾を連れて、英彦山の野沢数馬を訪ねる。「野沢数馬来訪の返礼かたがた彦山遊行する」とある。
弘化三年五月二三日、「詩稿を長谷允に贈る」
同年一〇月六日、「彦山長谷南粱、水月道士より詩贈り来る」
同年一〇月九日、「長谷南粱に要用」
弘化四年五月一六、「彦山長谷南粱上国遊歴の由にて迂路過訪、吟酌尽歓」