安政三年(一八五六)、一七歳の玄瑞は初めて九州への旅をした。その節、最初に豊前京都郡上稗田の村上仏山を訪ねたのである(『月刊松下村塾』二〇〇四年一一月、株式会社山口産業)。この時、仏山は四六歳であった。水哉園を開いて二一年目のことである。すでに『仏山堂詩鈔』の三巻は発行され、いろいろなところで読まれて、仏山の名声は益々高まっていた。玄瑞は仏山の弟子たちと共に詩会を開き、大いに親交を深め、感激している(『久坂玄瑞』武田勘治著、復刻版・平成六年一〇月一〇日)。
この時の仏山の様子は、「仏山堂日記」が欠本となっているので分からないが、玄瑞の七言古詩が残されている。「仏山堂、仏山堂、堂は稗田飛岳の傍に在り。吾れその名を聞きて牆外に望み、書劔匆々として旧郷を辞す、(中略)茶酒膝を交へて談、方に静かなり、慇懃我れに依す一吟襄。詞賦幾十首意温かなり、咳唾(話)玉並に金石の如く鏘たり。且つ吟じ且つ誦し起つて快を呼ぶ。軒に当る群嶽、勢い駈(駆)けんと欲す。更に仰げば崔巍抜然として出で、仏山雲散じて雲後に蒼し」
若き玄瑞は、詩人として青雲の志をもって、著名な仏山を訪ね、その温かい歓迎を受けて、楽しい詩会に感激している。
武田勘治著の『久坂玄瑞』には次のように記されている。「漸く十七歳の青年詩人は、仏山を訪れ席上忽ちこれだけの詩を作ったのである。尤も途中から考えてもいたであろうし、後で推敲もしたに違いない。仏山は弟子を集めて、共に韻を分って詩を作り、青年久坂を歓待した」
九州旅行で得た感慨を「西遊稿」で詩(五言律詩)に詠っている。
船が主要な交通機関のころは、防長と九州の人たちはしきりに往来していた。また双方に遊学する者も多かった。久坂も同様に文人として「浩然の気と大見識」を養おうと、九州に遊学した。どこに行っても九州の人や風景は詩心をかきたてると詠う。
出郷
男子蓬桑の志、飄然として覇城を出づ
雲烟三月好ろし、書劔九州の行
月落ちて林花暗く、鞭風馬声を帯ぶ
紅山、眼裡に吟じ、随所予に評を託す
男子蓬桑の志、飄然として覇城を出づ
雲烟三月好ろし、書劔九州の行
月落ちて林花暗く、鞭風馬声を帯ぶ
紅山、眼裡に吟じ、随所予に評を託す
この後、長三洲をはじめかなりの数の尊皇の志士たちが訪れている。この仏山と玄瑞との出会いがその一つのきっかけとなっているのかも知れない。