豊前の連歌

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 連歌は、南北朝から室町時代にかけて成熟し、広く行われた文芸であることは、よく知られている。江戸時代においても、和歌とともに伝統文芸として行われてきた。近世の行橋では、今井の祇園(ぎおん)(須佐神社)の祭礼に連歌の興行、奉納が行われており、それは室町時代に始まり、江戸時代を通じて行われ、現在まで継承されてきたものである。この地域で連歌が強い関心を集めていたことは、永禄三年(一五六〇)門司城主仁保常陸介隆安が文台を、細川藩の時代、慶長一六年(一六一一)細川家家老長岡佐渡守興長(おきなが)が連歌料紙箱を祇園社に奉納していること(『京都郡誌』)や、藩主小笠原忠真(ただざね)の愛顧を受けた大坂の天満宮の連歌所宗匠西山宗因が小倉を訪れて、「浜宮(はまのみや)千句」や「小倉千句」を残していることから知ることができる。西山宗因が今井祇園社の人々の求めに応じて発句を詠んで与えたことが、『宗因発句帳』(『西山宗因全集』第一巻、連歌篇一)に見える。
 
   豊前今井津祇園社家所望
  祇(かみ)の園茂らす民の草葉哉

 
 宇佐神宮やその周辺でも連歌が行われてきており、一八世紀半ばに安心院重清(あじむしげきよ)が出て、連歌学書『連歌安心集(れんがあんじんしゅう)』を著し、寛政から文化・文政にかけては、幕府の連歌師里村家をついだ玄川や玄碩(げんせき)が出て、後に述べるように行橋の人々が入門している。この頃になると、今井祇園社以外の、村々の神社でも、雨乞いや厄除け祈願の連歌奉納が行われ、個人でも重村栄寛のような、独吟で万句連歌を詠む人も出た。