今井祇園奉納連歌

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 今井祇園社は、起源説の一つでは、鎌倉時代の建長六年(一二五四)に地頭職の福島采女正(うねめのしょう)重房、村上左馬頭(さまのかみ)が、疫病の流行を憂えて京都の祇園社を今井村(現行橋市今井)に勧請、天正(一五七三~九二)の頃、元永(現行橋市元永)の妙見山(祇園山)に遷座したものという。同社は、素盞嗚尊(すさのおのみこと)(薬師如来の化身で、インドの祇園精舎の守護神牛頭天王(ごずてんのう)が、日本の神として現れたと説かれる)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、八王子を祭神とし、近隣より広く尊崇を集め、北部九州各地に勧請され、また、江戸時代の藩主小笠原氏は、祭礼に際して代拝使を派遣し、正徳二年(一七一二)からは社禄六石を寄せたといわれる(『京都郡誌』)。
 今井祇園社の祭礼は、連歌、山車、八ツ撥を柱とする。連歌が祭礼の重要な部分をなすことはもちろんであるが、連歌が祭礼に入った始まりは享禄三年(一五三〇)と伝えられる。連歌の奉納は、当時、太宰府や北野の天満宮、伊勢神宮、住吉大社、三島大社などの諸社でさかんに行われていた。今井祇園社の奉納連歌の年々の発句を記した『祇園会連歌発句牒(ぎおんえれんがほっくちょう)』の享禄三年の項には、「朔日発句 福島七郎兵衛重貞、十三夜発句 同杢(もく)左衛門信真、十四夜発句 同六郎次郎信継」と記されていたという。三座三百韻(いん)であったことが推測される。通常伝えられている奉納連歌の日程は次のようなものである。
 
陰暦五月二十五日、福島家で発句定め(福島氏発句)と一巡、六月一日、須佐神社社殿で一巡のメンバーにより百韻満尾。
陰磨六月九日、善徳寺(村上家、浄喜寺分家、元亀三年〔一五七二〕良信開基)で発句定め(善徳寺発句)と一巡、同十三日夜、西町の車連歌。笠着(かさぎ)で百韻満尾。
陰暦六月十日、浄喜寺(じょうきじ)(村上本家、明応四年〔一四九五〕慶善〔村上良成〕開基。明治以後「今居」に改める)で発句定め(浄喜寺発句)と一巡。同十四日夜、東町の車連歌。笠着で百韻満尾。

写真8 浄喜寺
写真8 浄喜寺

写真8 須佐神社
写真8 須佐神社

 神社勧請の福島・村上両家が中心になっていることが認められる。そして、この福島家、善徳寺、浄喜寺の三座の体制は、善徳寺の開基が元亀三年(一五七二)であるので、この年以降の成立ということになろう。なお笠着連歌とは、作者が名や身分を明かさないで自由に参加するもので、古く寺社のしだれ桜のもとで行われた花の下(もと)連歌で、簑笠(みのかさ)をつけ、身を隠して句を付けたことからいわれたものという。
 時代は下るが、文化・文政期(一八〇四~三〇)のものと思われる、福島氏発句の奉納連歌の参加人名と席次を記録した「一順席次」(福島文書)というものがある。
 
一順席次
発句福嶋新右衛門 房昭
脇句善徳寺 良譲
第三浄喜寺 良雄
 四庄野彦五郎 輔智
 五 役席平嶋寛左衛門 副中
 六 役席平嶋三左衛門 直敬
 七有松雄助 利愛
 八鶴屋本家 有松経太郎
 九高辻石見守 安都
 十有松喜市 宗仍
 十一 但発句主格(隔)年福嶋伴吉 房矩
 十二庄野吉左衛門 豊充
 十三有松栄吉 豊勝
 十四 今井村庄屋席豊嶋安蔵 正賢
 十五刀袮彦助 種員
 十六松井円庵 直敏
 十七木村素佐 宗茂
 十八有松勇七 宗庸
 十九守田善左衛門 氏庸
 二十高辻木工頭 安通
 二十一片山壱岐頭 豊亭
 二十二片山造酒 政豊
 二十三片山主税 兼豊
 二十四片山丹後頭 豊陸
 二十五片山播磨守 豊常
 二十六 但前後当職ニヨル本郷飛騨守雅猛
 二十七宗匠
 二十八執筆
 匂句平嶋大庄屋
 上ゲ句当職大宮司
 (『今井祇園祭』
 〔行橋市教育委員会・二〇〇二〕所載「福島文書2」による)

 
 発句は福島氏。十一句目の福島房矩のところに「発句主格(隔)年」とあるのは、房昭と房矩が隔年に発句を詠むということ。脇句は善徳寺。浄喜寺の分家。第三は浄喜寺。村上本家。四句目は庄野氏。少し後の守田氏。これらは六頭といわれた、祇園社を勧請し、祭礼を始めたと伝えられる家々の子孫で、連歌興行の中心をなした人々といわれる(六頭のうち、辻氏は戦国時代、周防〔現山口県〕へ移住し、その地で祇園会を始めたといわれ、末次氏は一時筑前へ移ったといわれている)。
 五句目の平嶋寛左衛門副中は、平嶋手永の大庄屋。六句目の平嶋三左衛門直敬は子供役。十四句目の豊嶋安蔵正賢は今井村庄屋。七句目の有松雄助利愛は医師という(高辻安親氏示教)。この利愛ら有松家の人々は、医師として村に重きをなした立場ということであろうか。九句目の高辻石見守安都、後に出る高辻木工頭安通、片山壱岐頭以下の片山氏、本郷飛騨守雅猛たちは、宮司など神社の人たちである。さらに、宗匠、執筆(しゅひつ)が加わる。宗匠は連歌興行の総合指揮、指導。執筆は連歌の座で提出される句の吟味や書記を担当する役である。
 このように、①六頭の家の子孫の人たち、②大庄屋以下、村役の人たち、③神社の人たち、①宗匠、執筆、というように、四つの立場の人々から成っている。祭礼の一環として行われる連歌のあり方をよく示すものといえよう。いつ頃このような一座の構成ができあがったかは分からないが、おそらく前の時代のものをうけつぎながら、江戸時代の体制が整っていくにつれ形成されていったものであろう。
 なお、「一順席次」の十三夜西町車連歌の一順は、発句から八句目まで、善徳寺良譲、福嶋房矩、浄喜寺良雄、直敬、利愛、豊充、安都、宗匠。十四夜東町車連歌の一順は、良雄、良譲、輔智、大庄屋、経太郎、宗仍、房昭、宗匠とある。
 福島家に伝わる系図(福島文書)によれば、その代々は表1のとおりである。また、十四夜東町車連歌の発句の作者である浄喜寺の住持の名と勤めた年時を控えたものがある(浄喜寺文書)。表2に見えるように、天文二〇年(一五五一)の西遊の次に少し間隔があって、文禄二年(一五九三)からの良慶が記されている。以後は一時他家が代替した年もあるが、おおむね定例的に浄喜寺の住持が勤めて幕末に至っていることが知られる。
表1 福島家家系
表1 福島家家系
(『今井祇園祭』(行橋市教育委員会・2002)所載「福島文書6」による)

西遊天文20(1551)
良慶文禄2(1593)~文禄4(1595)
慶安慶長1(1596)~慶長19(1614)
蓮休元和3(1617)~元和9(1623)
玄覚寛永1(1624)~慶安1(1648)
良伯慶安2(1649)~明暦1(1655)
良覚明暦2(1656)~寛文10(1670)
中将寛文11(1671)~貞享3(1686)
信良貞享4(1687)~元禄1(1688)
英重元禄2(1689)~享保3(1718)
良英享保5(1720)~寛延2(1749)
良泰安永8(1779)~天明6(1786)
良因天明7(1787)~天明8(1788)
良雄寛政1(1789)~文政11(1828)
良恭天保3(1832)~文久3(1863)
良春元治1(1864)~
表2 浄喜寺住持代々と年次
(「浄喜寺文書断片」
陣山綏『彩雲-浄喜寺古文書をよむ-』昭和55による)

 なお、『祇園会連歌新発句牒』には、弘化四年(一八四七)から慶応四年(一八六八)まで二二年間の分が存し、その間の、六月一日、六月十三夜、六月十四夜の奉納連歌の発句作者と宗匠の名が知られる(福島文書)。六月一日の社頭での奉納連歌では、安政二年(一八五五)までは、福島家の房一と房仲が隔年に発句を詠み、同三年以後は、房次、房賀が交代で勤めている。十三夜連歌では、元治元年(一八六四)まで善徳寺良茂、以後は良仲。十四夜連歌では、浄喜寺の良恭、良春が詠んでいる。また、宗匠は、文久元年(一八六一)まで重村栄寛が勤め、翌二年は京都郡下久保村須右衛門芳孟が勤めたと記され、三年以後は記載がない。
 弘化四年の分を次に掲げておく。
 
弘化四年未六月朔日                栄寛捌(さばき)
何路(なにみち)  四方(よも)に今薫るや神の時津風  直行作代房一
 同十三日夜
千何(ちなに)  茂りあふ代やいく久に祗(かみ)の園     良茂
 同十四日夜
何心(なにこころ) 神祭る餐(みあへ)や備ふ園の瓜       良恭

 
 なお、今井祇園の祭礼の全体や連歌奉納行事の細部については、『今井祇園祭 福岡県行橋市大字今井・大字元永周辺伝承の無形民俗文化財調査報告 行橋市文化財調査報告書 第31集』などに詳記されている。