これらの人々に先立ち、豊後玖珠の古桂編で、宝暦一一年(一七六一)の跋のある『竜門滝』(慶応義塾図書館・奈良文庫蔵)に、
もみぢばやから紅のたきの水 豊前今井津円水
滝の原やさながら雪の花柳 中将
雪をぬきに織るしら衣や滝の原 豊前大橋親房
滝津瀬やえもいはそそく花の波 重信
滝の原やさながら雪の花柳 中将
雪をぬきに織るしら衣や滝の原 豊前大橋親房
滝津瀬やえもいはそそく花の波 重信
など、今井津一二名、大橋一三名の句が収められている。重信は、先の石川恕助重信であろうか。福島家や浄喜寺のある今井のみならず、大橋にも連歌を詠む人々のグループがあったことが知られる。
また、先にあげた人々の中で、竹下吉広は、文政四年(一八二一)七月一〇日に、遺族や包敷、吉信、正道、治寛らにより二十五回忌の追善連歌が催されており、逆算すると、寛政九年(一七九七)に没したことになる。吉広は、天明元年(一七八一)に独吟の千句を詠んでおり、その活動の時期は、先の「一順席次」の人々より少し前の世代にあたる。
玄川の句集には、玄川に入門した人の名も書かれている。また、同じ頃、四日市(現宇佐市)に渡辺綱峯という人がいて、玄川の跡をついで里村家に入り、玄碩(げんせき)と号して、幕府の御連歌師を勤めているが、この人の入門帳にも行橋の人々を見出すことができる(表3)。これらの人々は、ほとんどが神官や大庄屋、庄屋である。村々の神社の祭礼の法楽、祈祷の連歌は、これらの人々を中心に行われたということであろう。
表3 里村昌逸、玄川、玄碩に入門した人々 | ||
入門年次 | 師名 | 入門者名 |
昌逸 | 山本貞寛、重村栄寛 | |
寛政七年 | 玄川 | 山本治寛 |
享和二年 | 玄碩 | 有松宗庸、有松利篤、有松宗唯 牧瀬安通、寺尾好信 |
三年 | 玄碩 | 白石包敷 |
文化元年 | 玄碩 | 片山豊隆、豊嶋正英、庄野直寛 村上盛直 |
二年 | 玄碩 | 重村栄寛 |
三年 | 玄碩 | 堤孟伸、山本満寛 |
五年 | 玄碩 | 定村直、定野元義 |
八年 | 玄川 | 重村栄寛(再) |
九年 | 玄川 | 本郷雅猛、前田玄理 |
十年 | 玄川 | 浄喜寺良雄、片山豊亭 |
十二年 | 玄川 | 加来茂八郎、片山若狭 |
十四年 | 玄川 | 山本寛命 |
玄川の句集から、この人々との交流をいくつかうかがってみよう。
文化八年(一八一一)
延永にて包敷へ暫し別れて
又逢はんと契りて
夏引の糸絶えず問へ道の友
延永にて包敷へ暫し別れて
又逢はんと契りて
夏引の糸絶えず問へ道の友
包敷は、西谷の人。享和三年(一八〇三)、里村玄碩に入門。自ら連歌付合手引書『連歌附合独用集』を編んだが、序文によれば、この書を編むのに包敷は『附合小鏡』『連歌安心集』を基とし、他の諸書を参照したという。いろは順に連歌を詠むための言葉を解説したもので、彼の連歌に対する熱意をうかがうことができる。
文化十四年(一八一七)
今井祇園社奉納 五月廿(にじふ)五日発句定
陰凉し神の御(み)山の八重榊(さかき) (玄川)
今井祇園社奉納 五月廿(にじふ)五日発句定
陰凉し神の御(み)山の八重榊(さかき) (玄川)
これは、六月一日奉納の連歌の発句で、おそらくこの時、玄川は宗匠を勤め、福島氏に代わって作ったものであろう。
行司村正八幡宮名越(なごし)奉納作代
川瀬にも千世の声聞く御祓(みそぎ)哉 (玄川)
岡崎狭間源兵衛慶明所望 村中流行病退治
祈祷氏神奉納
川瀬にも千世の声聞く御祓(みそぎ)哉 (玄川)
岡崎狭間源兵衛慶明所望 村中流行病退治
祈祷氏神奉納
「名越」は、六月晦日のお祓いの神事。「岡崎」は、現在苅田町に属する。
山本治寛勲功により太守より苗氏(名字)永く許されける祝ひ
代々すむや又千秋経ん宿の月
代々すむや又千秋経ん宿の月
山本治寛は延永の大庄屋。貞寛の子。寛政七年(一七九五)玄川に入門。
文化一五年(一八一八・文政元年)
堤孟伸、門松を許されて今年始めて立てけるを祝し
ことたつや春を幾世の門の松
堤孟伸、門松を許されて今年始めて立てけるを祝し
ことたつや春を幾世の門の松
堤孟伸は、行事の人。玄川がしばしば宿とした家の主で、玄川が法橋昇進の記念に、この人に与えた『和歌六部抄』など歌書が現存する。
春日社法楽
仰ぐ世や天津児屋根(あまつこやね)の神の春
仰ぐ世や天津児屋根(あまつこやね)の神の春
春日社は延永の春日神社。山本家で新年を迎えた玄川がこの神社にささげたものである。「天津児屋根」はこの神社の祭神。
七月六日当所神事十ヶ村氏子相ひ集ふ。
内七ヶ村氏神御輿(みこし) 御旅所行幸、
当年は七社ともに御輿新調なれば
神のます御輿や月の玉鏡 治寛作代
内七ヶ村氏神御輿(みこし) 御旅所行幸、
当年は七社ともに御輿新調なれば
神のます御輿や月の玉鏡 治寛作代
これは、一〇カ村合同の神事に際してのものであるが、連歌を奉納する時に、何かの事情で山本治寛が玄川に代わって発句を詠んでやったものであろう。