村々の祭と連歌

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 玄川の句集に見えるように、村々の神社では、祭礼の折や病気退散などの祈祷のための奉納連歌がおりおり催されている。次の例は、行事村の正八幡宮で雨乞いの祈祷のため笠着連歌が行われたものである。
 
  文久元年七月七日正八幡宮に於て
  郡中雨乞御祈祷に付き
  笠着連歌
天の川水せき下せ御田(みた)早稲田白根孫七貞良
 畠つ物皆実のる広前高竹賢真
月出づる山の遠近(をちこち)しめ挽(ひ)きて宜室
(百韻・下略)

 この神社は、草野・長音寺・行事三村の産神(うぶがみ)で、「旧藩時代祈雨止雨等、郡中大祈願のことあれば、領主代参者参拝す」(『京都郡誌』)とある。白根孫七貞良は郡奉行(『京都郡誌』)である。
 
  文化八年五月十日  除厄祈願
   賦何路(ふすなにみち)連歌
星晴れて実もいさぎよし神の梅     玄川
 夏景(なつかげ)ふかき御手洗(みたらひ)の水     政敷
(百韻・下略)

 この発句は、玄川の句集に「久保一左衛門四十二除厄」と前書がある。脇を付けた政敷のことで、久保手永の大庄屋。この百韻には、治寛、正信、包敷、盛直などが一座している。
 津留(つる)神社(現行橋市津留。明治四一年貴船神社と鶴岡八幡宮が合併したもの)に伝えられてきたものに、天保四年(一八三三)八月一四日に催された奉納笠着連歌がある。
 
  賦花何(ふすはななに)
鶴千秋岡になるるや神恵(めぐみ)    惣右衛門
 宮居に仰ぐ松陰の月    貞実
人集ふ真砂(まさご)は露の玉敷きて    惣代
  (百韻・下略)

 このほかにも、天保一〇年(一八三九)以後、慶応三年(一八六七)に至る数年分の百韻の懐紙が残されている(これらの事例は高辻安親氏示教)。
 なお、草場(現行橋市南泉)の豊日別宮(とよわけのみや)(草場神社)に、天明六年(一七八六)六月一九日に興行された「官幣大神宮行幸之連歌」百韻一巻が伝わることが報告されている(池田富蔵「豊日別宮の縁起と官幣大神宮行幸会の連歌」『美夜古文化』第二五号、一九八一)。この神社は、古代、宇佐神宮の放生会に遣わされた勅使が御神鏡を鋳造する間、官幣をこの宮に留めたといわれる。時代が下ってこの行事も簡略化されたが、右の報告には、こうした勅使参向を機に土地の連歌同好者がこの神社に集って一座を持ったものと思われると記している。作者として、照之、神主、惣代とあるが、神主は神(こう)氏であった(『太宰管内志』)が、「照之」は使者の名か。その他、成立の事情も明らかでない。初折表八句を掲げる。
 
    賦花何(ふすはななに)
  神や知る心の麻の木綿祓(ゆふはらへ)照之
   清き真砂にさせる忌竹(いみだけ)神主
  広前の月に行く人打ち連れて惣代
   籬(まがき)に鳴ける虫拾ふらし
  庭に咲く小萩の花は麗(うる)はしみ
   まだ女郎花(をみなへえし)紐解かぬ比(ころ)
  村雨のさと降り通る野辺の末
   立ち出でけらし旅の中宿