同年一二月二一日に、小倉城で寺社奉行を通じて献上、翌二二日には、関東御連歌師の例をもって殿様御垢(あか)付の肩衣を下賜されている。
その万句、『豊城御祝例一万句之連歌』の最初の千句の第一百韻の初折表八句は次のようなものである。
第一 寄松祝(まつによするいはひ)
賦山何(ふすやまなに)
万代(よろづよ)のはじめや祝ふ松の春
御館(みたち)のどかにさかゆ豊国
君臣の道全たしき年越えて
こころのたけのただしさはさも
滝津川水いさぎよく流るらん
浪もきほひてそふ風の音
すみのぼる月は雲路の大空に
露うるはしくむすぶ草の葉
(百韻・下略)
その万句、『豊城御祝例一万句之連歌』の最初の千句の第一百韻の初折表八句は次のようなものである。
第一 寄松祝(まつによするいはひ)
賦山何(ふすやまなに)
万代(よろづよ)のはじめや祝ふ松の春
御館(みたち)のどかにさかゆ豊国
君臣の道全たしき年越えて
こころのたけのただしさはさも
滝津川水いさぎよく流るらん
浪もきほひてそふ風の音
すみのぼる月は雲路の大空に
露うるはしくむすぶ草の葉
(百韻・下略)
その序文の中で、栄寛は里村家の教えとして、正風幽玄の心を持って詠むのは、百韻以下の通常の連歌の場合も同じであるが、ことに千句、万句を詠む場合は、同じ句作り、同じ内容のものがないように気をつけ、和漢の書を広く見渡して教養を高め、天地自然の動きに心を配る用意が必要であると述べている。
さらに、同じ序文の中で、連歌の歴史をたどり、江戸時代においては、幕府の連歌をはじめ、伊達藩や京都北野、太宰府の天満宮は古い歴史を持ち、九州の各地でも行われているが、豊前では、宇佐、四日市、中津、椎田、そして今井の神社で奉納連歌が行われていると述べている。これが当時の状況であったということであろう。
下崎八幡宮の境内には「豊国筑波神」の碑が立ち、重村栄寛をしのぶよすがとなっている。
幕末期から明治、さらに昭和にかけて、連歌は、一般に学び親しむ人も少なくなり、社寺における奉納連歌も廃されていったようであるが、今井祇園社(須佐神社)では祭礼の行事として守られ続けて今日に及んでいる。