重村栄寛と万句連歌

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 重村栄寛は、下崎(しもさき)八幡宮の宮司だった人である。里村家から宗匠の許しを受け、文化八年(一八一一)玄川に再入門して、連歌に対する熱意を持ち続け、今井祇園の奉納連歌でも宗匠を勤めている。天保の頃から藩主に百韻や千句の連歌を詠んで献上していたが、安政三年(一八五六)には、藩主の入国を祝して独吟で一万句の連歌を詠み、献上した。万句とは十の千句から成り、千句は十の百韻、それも春と秋の発句による百韻各三巻、夏と冬の発句による百韻各二巻から成る。万句はその十倍、合計百の百韻から成るものである。栄寛はそれを独吟で成就したのである。
 同年一二月二一日に、小倉城で寺社奉行を通じて献上、翌二二日には、関東御連歌師の例をもって殿様御垢(あか)付の肩衣を下賜されている。
 その万句、『豊城御祝例一万句之連歌』の最初の千句の第一百韻の初折表八句は次のようなものである。
 
   第一 寄松祝(まつによするいはひ)
     賦山何(ふすやまなに)
  万代(よろづよ)のはじめや祝ふ松の春
   御館(みたち)のどかにさかゆ豊国
  君臣の道全たしき年越えて
   こころのたけのただしさはさも
  滝津川水いさぎよく流るらん
   浪もきほひてそふ風の音
  すみのぼる月は雲路の大空に
   露うるはしくむすぶ草の葉
               (百韻・下略)

 
 その序文の中で、栄寛は里村家の教えとして、正風幽玄の心を持って詠むのは、百韻以下の通常の連歌の場合も同じであるが、ことに千句、万句を詠む場合は、同じ句作り、同じ内容のものがないように気をつけ、和漢の書を広く見渡して教養を高め、天地自然の動きに心を配る用意が必要であると述べている。
 さらに、同じ序文の中で、連歌の歴史をたどり、江戸時代においては、幕府の連歌をはじめ、伊達藩や京都北野、太宰府の天満宮は古い歴史を持ち、九州の各地でも行われているが、豊前では、宇佐、四日市、中津、椎田、そして今井の神社で奉納連歌が行われていると述べている。これが当時の状況であったということであろう。
 下崎八幡宮の境内には「豊国筑波神」の碑が立ち、重村栄寛をしのぶよすがとなっている。
 幕末期から明治、さらに昭和にかけて、連歌は、一般に学び親しむ人も少なくなり、社寺における奉納連歌も廃されていったようであるが、今井祇園社(須佐神社)では祭礼の行事として守られ続けて今日に及んでいる。
 
写真10 下崎八幡宮と豊国筑波神碑
写真10 下崎八幡宮と豊国筑波神碑